●「スージー」というのは、彼女の本当の名前ではない。
彼女の夫がつけてくれた英語の名前である。
彼女は、八人兄弟の長女としてたぶん1917年ごろにうまれた。
母がよく病気になったので、彼女が家の事を引き受けていた。子供の頃から羊を育て、その毛を編んだ。
彼女が十六歳の時、母は末の子供を妊娠し、街の病院に入院した。それが母との別れとなり、父は小さな弟をかかえて家に帰ってきたのだった。
一家の母親となった彼女は、集落に出入りしていたハリー・ゴールディングという商人に頼んで、彼女の織物を買ってもらい、生活品を入手した。
彼は時々観光客を連れてきて、スージーさんは彼らの写真の為にポーズをするようになっていった。
映画監督のジョン・フォードがモニュメント・ヴァレーを舞台に映画を撮るようになった時、彼女はエキストラとして出演した。いくつかの映画では演技もした。※小松注:「駅馬車」の時はまだ十代前半、「荒野の決闘」の時には二十代後半と思われる。
映画の出演料が支払われなかった時、解決するためにロサンゼルスまで行ったのが、たぶん唯一村を出た経験だっただろうと思われる。夏は灼熱・冬は極寒のモニュメント・ヴァレーに住んでいる彼女のサンゼルスの印象は「暑い国」というものだった。
彼女はロサンゼルスに滞在している時、二の腕に自分の名前を刺青した。英語をほとんど話せなかった彼女は、契約書にサインをすることを学び、自分の名前を、腕に彫った刺青を見ながら書いたのだった。
彼女はずっとのちになっても、英語はほとんど話さなかった。あるいは、分かっていても自分から話そうとしなかったのかもしれない。
小松が2007年にお会いした時から、一度も英語を話しているのを見たことがない。英語は彼女にとってどこまでも「外国語」だったのだろう。
彼女はずっと水道も電気もないモニュメント・ヴァレーに住み続け、そこで結婚し家族をつくった。 五人の息子と一人の娘から二十四人の孫が生まれ、そこから二十八人のひ孫、今では十六人の玄孫までいる。
しかし、子供たちはみんな不自由な暮らしなど選ばない。いつか一人になった彼女は、七十年前と変わらず観光客を迎える。そうして人と会う事が彼女の命を長らえさせていたのだろう。
木組みの上に丸く土を持ったホーガンというテントのような家の真ん中には、まるで玉座のような彼女専用の椅子があった。糸をつむぐ彼女の手はとてもしっかりしている。何十年も毎日そうしてきたのだろう、その仕事を止めない事も、彼女の生きている証だったのだろう。
握ってくれたその手は大きく暖かかく、亡くなった祖母の手を思い出させた。
ここに来ればいつだって会えると思っていた。
2014年5月、二年ぶりのモニュメント・ヴァレー。彼女はしかし、昨年末に亡くなっていた。
ここに書いた彼女の簡単な人生は、ほとんどが訃報を知らせるボードに書かれていた事である。
小松のホームページにスージーさんの訃報のボードを載せると、何年も前、一緒にスージーさんに会った事のある方がメールをくださった。
「彼女のお仕事場で買ったターコイズのチョーカー、今も大切に胸につけております。とても素敵な色でめずらしいアクセサリーだとよくいわれます。」
ただの観光旅行での、ほんの小さな人との触れ合いにすぎない。しかし、そんな時間を大切にする事で、訪れた場所に対する気持ちはずいぶん違ったものになる。
スージーさんに出会っていなければ、小松はアメリカという国のひとつの真実が見えなかったかもしれない。残してくれたモノ、大事にしていきます。