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デルフトのグロティウス像
2010-04-09
ブルージュを出発し二時間半で風車の立ち並ぶキンデルダイク到着。一時間の滞在。貸し自転車でどこまでも走って行きたいような堤防が続いている。

昼食はデルフトの町外れ。元は農場の納屋か羊小屋だった場所だろう、なかなか雰囲気のあるレストランである。

午後、デルフト焼きの工房を見学。
その後、デルフトの旧市街も少し行く時間をつくった。

**

デルフトの旧市街、マルクトはきちんとした美しい広場である。

こぢんまりした広場の一方には新教会、ここは沈黙候ウィリアムからはじまるオレンジ・ナッサウ家の墓所。およそ109メートルの大鐘楼が聳え立つ。

かのフェルメールの住居・アトリエ、経営していた酒場・宿屋はこのすぐ近く。 「デルフトの小路」の場所とされる聖ルカギルドの建物は、現在フェルメールセンターとなっている。

***
★この広場に建つ銅像は近代国際法の始祖とされる17世紀の人・グロティウス。彼の書物は19世紀にライデンに滞在した榎本釜次郎(武揚)も学んだとされる。

★★今回の再訪で資料を再び読んでいて、長らく自分が誤解していたことに気づいた。

榎本武揚が戊辰戦争最期の地函館にまで携えていった本・「海律全書」は、グロティウスの著書ではなく、本当は19世紀はじめのフランス人・軍人・法律家ジョセフ・オルトランの書いたものだった。

++
以前、こんな文章を「メール通信」用に書いたことがあった。
以下に載せます

****死地に救う本〜オランダから五稜郭へ****

オランダ・アムステルダムから電車で30分程の町、ライデン。
シーボルトが、御禁制の地図をもちだそうとして日本を強制退去になった後、ここに長く住んでいた。 大学があり、その植物園には当時シーボルトが日本から持ってきた植物が、今も健在であるという。

そういった興味から、この街へ行ってみる気になった。4月のよく晴れた朝、空いた電車に乗っていく。博物館に入り資料を読んでみると、ライデンには江戸末期に日本からの留学生達が何年も滞在していた事を知った。

そうだった。日本は鎖国時代に、唯一オランダ語で西欧文化を学んでいたのだ。アメリカとの間の条約文でさえもオランダ語で書こうとしていた程だ。だから、開国の後、本格的に洋学を学ぼうとした時に、「オランダから」と思うのは当然の事だ。

1862年の幕府遣欧使節団に同行した27歳の福沢諭吉は、オランダへ着いた時に書いている。「使節団の中、横文字を解する者でオランダ語を分からない者はいないから、ここへ来ると第二の故郷に帰ったような気がする」

1863年6月5日。福沢諭吉の同行した使節団の一年後。幕府がオランダへ注文した軍艦の引取りを兼ねて、15人の日本人がロッテルダムへ到着した。15人のなかで、学術を学ぶ役目の西周(にしあまね)らは大学のあるライデンに滞在した。

※この「学術」という言葉をはじめ、「科学」「芸術」「理性」「哲学」などは西が翻訳して、始めて日本語となったものだそうだ。彼は現在のコンピューター用語ように、カタカナにして済まそうとは思わなかった(えらい!)。ライデンには西が学びに通った教授の家が残っている。

一方、幕府注文の軍艦「開陽丸」に直接かかわる使節団員は、ライデンからもロッテルダムからも近いデン・ハーグに滞在した。そこで榎本釜次郎(後の武揚)らは、国際海洋法をはじめ海事にかかわる全てを学んだ。  さらに、長崎で榎本を教えていたオランダ軍人がその時の海軍大臣になっていた事も幸いしたのだろうか、日本へ帰国後、榎本は未だ31歳で開陽丸の艦長となった。

* **
五年後1868年。榎本釜次郎は函館で死を覚悟していた。
大政奉還後の江戸を「開陽丸」と共に離れ、明治新政府に反旗をひるがえしたのである。
しかし、船は嵐に見舞われ苦難の末佐幕派と頼る仙台に入港。 時代の動きは速く、すでに仙台藩さえ明治新政府に恭順してしまい、行き場を失ってしまった。

新撰組をはじめ、同じく行き場を失った幕臣達2500人ほどを率いて、最後の新天地と思い定めた蝦夷は函館にやってきた。 榎本がオランダ留学前に蝦夷で過ごしたことがあり、土地感があったのがひとつの理由だろう。
「蝦夷ならば、明治政府は我々幕臣に与えてくれるかもしれない・・・」そんな思惑もあったに違いない。

しかし、半年の後、新政府軍は五稜郭をかこんでいた。 ロッテルダムで建造された開陽丸は、すでに江刺港で戦わずして沈没。 新撰組の土方歳三も戦いに倒れ、今や函館港の要塞も陥落した。 榎本ら旧幕臣達に残されたのは、今やこの五稜郭だけである。(五稜郭は西洋の城砦をもとにした、星型五角形をしている)


すでに食にも事欠くようになった敗残の兵達。次の総攻撃にはもう耐えられないだろう。

この時、榎本の手元には一冊の本があった。「海律全書」それは海の国際法について書かれた本である。 若き榎本はオランダ留学中にこの本に書き込みしながら学んだのだった。 自分が仕える江戸幕府が崩壊し、その知識を生かす場所など与えられなかったけれど、江戸から敗走する間にも、肌身離さず持ちつづけてきたものだった。 「この本は、これからの日本に必ず必要になる」そう思って死地にまで携えてきた本である。

「この本だけは、灰にしてはならない。日本の為に残さなくてはならない」そう思った榎本は、五稜郭を包囲する明治政府の将・黒田清隆にこの本を届ける。 榎本の志を知った黒田は返礼として、五稜郭に五斗の酒と肴を贈った。始めは「毒入りか?」と疑った五稜郭の兵達も、結局は意気に感じたはからいである。
敵と味方に別れていても、共に日本の将来を思う気持ちに変わりはないと、双方理解していた事だろう。

その夜、一死を持って全てを背負うべく榎本は自刃しようとした。見つけた部下が、間一髪、自らの指を切りながら刃を握って押し止め、未遂に終わる。 そして、彼は結局は投降し、罪人として「東京」と名前のかわった江戸の獄舎に繋がれる事になった。

最後の最後まで、武力で新政府に反抗した勢力の首領。死罪が当然であるといえる。しかし、五稜郭を攻めた黒田は「彼はこれからの日本に是非必要な人材である、何とか助けたい」と奔走する。

死罪の主張をとりさげない新政府の閣僚にむかい、黒田はある日頭を剃って出向く。「榎本を助けられなければ、仏門に入る覚悟でござる。なんとかこれにて勘弁願いたい」とつるりとした頭をなでたそうだ。 (後年、黒田の死に際して榎本は弔辞を読む役回りとなる)

「海律全書」は福沢諭吉に翻訳を託された。しかし、福沢ははじめの数ページだけを訳してこう言った。「なるほど、ここにはたいへん重要な事がかかれている、しかし、これを正しく訳せるのは、自ら講義を受けた榎本をおいて他にないだろう」。
暗に榎本を助命したわけである。

沈没寸前だった幕末の日本を救うためにオランダにて手に入れた本。死地にまで携帯し、自分の死を超えても残そうとした本が、結局は榎本自身をも救う事になった。

榎本や西の見たライデンの街も、今日のような青空だっただろうか。




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