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アルブレヒト7世
2009-07-07
ミュンヘン、ニンフェンブルグ城に飾られた肖像画の説明をうける時、どのガイドさんも同じように説明するのだけれど、いつも疑問に思っていた事があった。

「カール・アルブレヒト、1742年に即位して神聖ローマ皇帝のアルブレヒト7世となりました」
しかし、ウィーンではかの有名な女帝マリア・テレジアの即位期間を1740年〜1780年と説明してくれる。同時期に神聖ローマ皇帝が二人いたというのだろうか?

こういう国をまたいだ王位皇位の事情については、総じて個々の町のガイドさんは詳しくない。ミュンヘンでもウィーンでも、私の疑問にしっかりした解説をしてもらえる事はこれまでなかった。

でも、自分でネットを調べてみると案外簡単に事情が分かってきた。

正式には神聖ローマ皇帝を継いだのはマリア・テレジアの婿だったフランツ・シュテファンだったのである。

1740年、マリア・テレジアの父カール6世が死去すると、周辺諸国が「実質的に娘が帝位を継承する」事に意義を唱えて戦争を仕掛けてきた。

カール・アルブレヒトは血縁もあり、帝位を主張できる立場であった。
彼の妻の父がカール6世の早世した兄で前皇帝のヨーゼフ1世だったのである。つまり、妻がマリア・テレジアのいとこだという縁。

この理屈は1743年に通ることになり、カール・アルブレヒトは弟のケルン大司教の手によってめでたく戴冠した。

しかし、その後戦局はオーストリア側に有利に動き、三年に満たず1745年にアルブレヒト7世が崩御すると、周辺諸侯はやっとマリア・テレジアの夫を皇帝と認めることになっていった。

**
この事情から考えると、ウィーンでマリア・テレジアの即位を1740年とするのは無理がある。 さらに、実質的には夫フランツこそが神聖ローマ皇帝だったのだから「女帝」というより「皇后」というのが正しいのである。



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