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タンペレへの視線
2009-02-26
昨夜ロバニェミから乗った夜行列車「サンタクロース・エクスプレス」では二部屋で予期せぬトラブルがあったけれど、とにかく朝05:48には無事タンペレ駅到着。

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この町に「ムーミン博物館」があるという事以外、日本のパッケージツアーにタンペレの町が組み込まれる理由はない。参加する方もタンペレにそれ以上を期待する人はほとんどないだろう。

しかし、この町は訪れてみると、落ち着いた佇まいと整った街づくりが魅力的で、思いがけずきれいな石を拾ったような嬉しさを感じる事が出来る。

この市の創立は1779年。
当時のフィンランドはロシア領の一部。
帝政ロシアの首都サンクト・ペテルスブルグに近いフィンランドの町々は衛星都市として計画的に発展させられた傾向がある。二つの湖を結ぶ水路が流れており、水そのものも水力も利用できる事が工場の進出に有利だった。

そして今では考えられないが、安い労働力としてのフィンランド人が住んでいたのである。

19世紀、タンペレの町は工業都市となっていく。
遠くから町へやってくると教会の十字架よりも立ち並ぶ煙突がもくもくと煙を吐き出している様な町だった筈だ。

この国の古来からの豊富な資源である木材産業・製紙業。
さらにこの写真のレンガ造りの建物は、その当時の工場群を代表するフィンレイソン社のもので、綿織物を生産した大資本であった。綿の材料は寒冷なフィンランドではもちろん生産できないから、原料を輸入して加工し輸出していたのである。

写真の左は1856年に建築され、「プレブナ」という名前がつけられた建物。この年トルコに勝利したブルガリアの(当時はロシア領の)町の名前である。
この建物の中で千二百台の織機が稼動していたそうだ。

右側は1890年に建設された建物で、名前は「シベリア」。
この頃ウラジオストックへと続くシベリア鉄道が建築されていった事による。

はじめは水力を直接利用していた工場だったが、冬場に水量が減る事が問題となり蒸気機関を利用することになった。さらに1881年にはヨーロッパで五番目に電気が導入された最先端の工場になっていった。
※電気の導入はロンドン万博ののクリスタルパレスから始まり、パリ、ストラスブール、と続く。四番目のミラノのオペラ劇場に続いたのがフィンレイソンの工場だったのである。

***

この話は、この写真のタンペレガイドのペトリさんが話してくれたことである。これまで何度かタンペレに来ていたがこういった細かい歴史に言及して解説を受けたのは初めてだった。

同じ町を解説してもらうにも、複数の視点からの話でよりイメージが掴めていく。確実にあると思うのは、女性の視線と男性の視線の違いだ。どちらが優れているという事ではなくて。



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