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ブダペストのユーゴ大使館
2007-11-17
ブダペストで政治的な催しが行われる定番の場所のひとつが「英雄広場」。かつて「スターリン通り」と呼ばれた事もあるアンドラーシ通りからこの広場へ入ってくる角にユーゴスラビア大使館の建物がある。※写真右低い方の建物

日本からの観光でも必ず訪れる英雄広場だが、ややこしい現代史にはガイドもあまり触れたがらない。

**

1956年11月4日朝。
自由をもとめるハンガリーの「革命」を鎮圧するため、ソ連軍の戦車がブダペストを制圧した。世に言うハンガリー動乱である。この日、改革政策を打ち出していた首相ナジ・イムレが逃げ込んだのがこのユーゴスラビア大使館。ユーゴスラビアは当時チトー大統領の下、ソ連と袂を分かっていたのでハンガリーの立場を理解してくれたのだった。

ハンガリーの自由への「革命」が完全に鎮圧された後、11月22日になってハンガリー当局とユーゴスラビアとの間でナジ首相の扱いについて妥協が成立した。「革命」中のナジ首相らの行動を処罰しないという条件が同意され、首相は自宅へ自由に帰る事が許された。

ナジ・イムレがユーゴ大使館を出ると、ハンガリー当局が用意させたバスが待っていた。「自宅へ送る」として首相らを乗せたこのバスは途中でソ連の軍用車に止められ、ナジはそのまま国外へ拉致されてしまった。

19ヶ月の投獄と尋問の後、死刑判決が出され、執行された。死に臨んでナジ首相の残した言葉がある。

「私はいつの日かもう一度ナジ・イムレの裁判が行われ、そこで私の名誉が回復されることを知っている。(中略)私が怖れている唯一の事は、その葬式の時に弔辞を読む人間が、今私を裏切った人々ではないか、という事である。」

三十年以上を経た1989年5月22日、ハンガリー政府はナジの名誉回復を発表し、英雄広場の一角に彼の棺が安置され、改葬式が行われた。



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