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アンソールの家、ブルージュからオステンドへ
2006-12-12
午前ブルージュ半日観光。この季節にはめずらしく気持ちよい青空の朝。花の時期(キューケンホフの開いている3月半ばから5月半ば)と違って日本のツアーには、ほとんどひとつも出会わない。なんと極端な違い(笑)。美術館や町歩きを楽しむのならば、花の時期をはずした方が快適である。

自由時間となっている午後、ブルージュから電車で15分ほどの海岸の町オステンドへ行った。目的は二つ。ひとつはブルージュがどのぐらい海から近い町なのかを実感する事。もうひとつはベルギー世紀末の画家ジェームス・アンソールゆかりの場所を訪ねる事。

**
中世ブルージュは、ドイツハンザ商人団が4大商館のひとつを置いていたほどに貿易で栄えた町。しかし、今の観光的たたずまいを見て歩いているだけではその地勢を感じられない。

マルクト広場からバスで5分ほどで城壁のすぐ外にある駅に着く。そこから北海に面したオステンドの町までは一時間に2,3本も列車が出ている。窓口で切符を買ったらまさにオステンド行きの列車に乗ればよい。線路はオステンドで北海に突き当たり、どの列車もそこが終点となっている。

OOESTENDとはつまり、英語で言うEAST・END東の終わりという意味である。ドーバー海峡の東の端という町なのである。実際ここからはドーバーへのフェリーが出ていて、たった3時間半で渡る事ができる。ベルギーとはイギリスの隣国なのである。


列車がオステンドに近づいていくと、所々で大きな工場が銀色のパイプをたくさん走らせているのが見えてくる。ブルージュの旧市街はもう観光でしか生きていけない場所になってしまったが、どっこい郊外にはちゃんと海に面したゼー・ブルージュという工業港がある。たくさんの船が出入りして、。石油の精製も行っている様子だ
。住宅街というので、ない。

オステンド駅のホームに入ると、なんとすぐ横に大きな船が見える。すぐとなりからドーバーへいくフェリーが出ているのだ。ここは海岸のリゾート地として19世紀には今よりも人々が来る場所だった。巨大な鉄とガラスで出来た丸屋根の駅舎にも、そういう時代が染みついている。イギリスよりもずっと物価の安かった時代には、船でたくさんのイギリス人達もやってきたのだろう。後から行った海岸の雰囲気もとても英国的なところがみられた。英国側の海岸の町ブライトンに見られるようなビクトリア調の桟橋が、過ぎ去った過去の隆盛を物語っていた。

旧市街方向に向かって歩き出す。新しいビルばかりだと思っていたら、突然フランス式ゴシックの塔を二つ持つ立派な教会があらわれた。予期していなかっただけに嬉しくなる。その後ろには正確な時代はわからないが、もう少し古い時代の要塞の一角と思われるレンガの塔が残されていた。

中心部に向かいさらに歩いていくと、区画整理しなおされて真っ直ぐに海へ続くメインストリートにたどりついた。ここは歩行者天国になっている。こちらでもクリスマスショップが目についた。

にぎわう道を5分ほど歩くと、中心の広場につく。「あ、ここが昔の中心だ」と新しい建物にかわっていても感じさせる雰囲気が残っている。この時期だけの屋外スケートリンクが開設されていて、子供も大人も楽しんでいる。

アンソールの作品がたくさんあるという美術館へ行こうと思っていたが、まだ見つからないので、先に地図に載っていたアンソールの家に向かっている。この通りの先にあると標識が出ている。

家は、道が北海に突き当たる100メートルほど手前にやっとみつかった。まずは緑色のショーウィンドーが目につく。中は暗い。なんだかほこりをかぶった理科室の標本みたいな変なものが置かれている。「ほんとにここそうなのか?旧ベルギーフランお札にもなった絵描きの記念館なのか?」しばらく入るのをためらってしまうたたずまいである。

中に人はいるようだ。ガラスのドアをあけるとがらんと暗い室内。ショーケースの内と外で雑談していた男女三人がこちらを向いた。にこやかな表情にすこしほっとする。「アンソールの家はこちらですよね」と英語で尋ねてしまう。まだここがそうなのか、躊躇していた。「そうですよ、ここは、アンソールが叔母のやっていた土産店です。彼は叔母の死後ここを相続しました。店は止めてからも内装や商品はそのままにしてあったんです。彼の絵によく出てくる仮面もこうやって昔のままになっているんです。」

不思議そうな私の表情からこう説明してくれた後、なんとコピー刷りながら、予期せぬ日本語説明書をとりだした。へえ〜、こんなものをつくってくれているんだ。なんでも、ひまそうにしていた一人のおじさんは、日本の金沢などに5年もいて、学校で英語をおしていたんだそうな。AETってやつでしょうかね。それで、なんと奥さんまで日本人だというのです。オステンドに帰ってきたのはたった4週間前だという。そう話した後「でも、日本語は話せはしないんだよ」と彼は英語で答えた。

他に見学者は見られない。奥の壁にコートがいくつかかかっているところをみると、数人は先客がいるのかもしれない。暗いタイムスリップしたような螺旋階段をのぼっていく、といきなりドアの向こうの暗がりから誰かがこちらを見ていた。

どきっとさせられる。それは暗がりでストーブを前にした年老いた男。蝋人形である。第二次大戦時、焼かれてしまったアンソールの「自らを暖める貧者」という作品(1882年作)をもとに、1970年代に彫刻家が作品にしたものだそうだ。ここにある必然性は低いが、このシュールな館にはあっているかもしれない。

さらにもう一階のぼると、この写真のアンソールのアトリエだった。

***
アンソールは1860年この町オステンドでうまれた。音楽が好きで子供の頃からバイオリンを弾いた。このアトリエにもオルガンが置かれているのがわかる。事業に失敗して飲んだくれになってしまった父。それを嫌っていた母。ともに亡くなり、翌年にはこの記念館になった建物で観光客相手の店を経営していた叔父叔母も亡くなった。もともと近くに住んでいた彼だが、相続後、ここに移り住んだのは五十代も半ばであった。

アンソールは生涯独身。生活臭のあるものはあまりみうけられない。部屋のなかで存在感を発し続けているのは、彼の絵にたびたび登場する仮面たち。オルガンの前の貝殻型の椅子。

壁にある絵はすべて複製品。この写真で壁全面を飾っている「キリストのブリュッセル入城」は、なんとロサンゼルスのゲティ美術館にあるという。

この環境、品々をゆっくり見渡していくと、今まで時々に見ていたアンソールの世界がどうやって形作られていったのが頷ける。作品には必然性がある。

****
せっかくきたのだから、アンソールの絵のホンモノがある美術館へもいかなくては。場所をきくと、さっきスケートリンクのあった広場である。しかし、行ってみるとその建物は今まさに工事をしていた。作品は15分ほど離れた現代美術館に移動しているという。

たどりついた現代美術館では「アンソールと海辺のアバンギャルド」という特別展をやっていた。10ユーロ払って入る。「どのくらい時間がかかりますか?」「ううん、最低1時間半だね」と受付のひと。

アンソールの作品だけならそうはかからないだろうと思って見始めたのだが…実際そのぐらいの時間にはなってしまった。彼の作品だけでも若い時のごくありふれた作品からはじまり、仮面の登場する以前のものを追っていってもけっこうな数があったから。

先ほど行ったアンソールの家で複製代用されていた作品も、ここでかなりの数の本物に出会えた。中にはこの企画展の為に貸し出されてきたものもあり、個人所有作品など通常では見られなかったものもある。今回は幸運だったというべきだろう。

最後の最後にその幸運の最大のものが待っていた。ロサンゼルスにある「キリストのブリュッセル入城」の、実物と同じサイズの下絵(だと思われる)が公開されていたのである。キリストはアンソール自身を現している。



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