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アングルは百年前のピカソ
2006-03-06
この「オダリスク」というアングルの作品は、日本でもお灸のCMに使われて一躍有名になった。

作者のアングルの展覧会が5月までルーブルで開催されている。
去る3月1日「ノクターン」として幸い21時まで開館していて見ることができた。

**
私はアングルをダビッド(あの「ナポレオンの戴冠」を描いた)の弟子ぐらいにしか認識していなかった。しかし今回まとまって彼の生涯の絵画を見ていくことによって、大いに認識を新たにさせられた。

書きたい事はたくさんあるが、ここではこの「オダリスク」についてだけ。

一見普通の美しい裸婦の様だが、人体ではありえない長さの背骨。同じようにポーズする事は絶対不可能な足の組み方。それは今までのガイディングでも拝聴した事である。

では、なぜ、どんな意図でそう描かれたのか?
これを、今までは全く理解できていなかった。

ミケランジェロやダ・ビンチを賞賛する言葉として「解剖学的に正しい人体」というのがあるが、それとは対極にくる人体。なぜ、アングルはあえてそんな人体を描いたのだろう。

写真がない時代、本物そっくりに描ける事が画家の最大の能力だった筈。同じ展覧会のデッサンは、ちょっと信じられないぐらいに緻密で美しいものだった。アングルには恐ろしいぐらいのデッサン力がもちろんあった。

「オダリスク」で意図的にそれを壊してまで、なぜこのような背中を描いたのか?
同じ日に見たピカソ美術館を思い出して、はっとした。

彼ら二人は「見たままを描く」のではなく、「見えたいように描く」事をしたということか。

ピカソはアングルのちょうど101年後の1881年に生まれている。もう写真が登場していた時代である。
ピカソは絵画を「写真のように画くことに意味はない」時代の絵描きだった。自分の目で対象を分解して、自分の好きなように構築しなおしてこそ、絵描きでいられた。

百年前のアングルにはさすがにそこまではできなかった。
しかし、自分が捉えた印象をデフォルメして、対象ではなく、自分の感性に忠実に、「見えたいように描く」ことはした、という事である。それだって、この時代には、ピカソと同じぐらいのいわば意図的破壊行為だったのではないでしょうか。

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解剖学的に正しい人体画。
それが絵画として賞賛に値するようには思えない。
(彫刻は文句なくすごいけれど)ミケランジェロの絵画はそんなに美しいでしょうか?



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