
2000年のシドニーオリンピックへは、スポンサーのVISAの旅行で女子マラソンを応援するツアーに同行した。
もちろん、日本人選手が金メダルをとるなんて、予想していなかった。
この古い新聞は、その翌朝、シドニーで入手したもの。
「もっとちゃんと顔が写った写真はなかったの?」と思うでしょう?
なかったんです、ほんとに。
オーストラリア人はマラソンに対して、思い入れなんぞぜんぜんない(笑)
スポーツ誌であっても、マラソンなんぞが新聞の一面になっている新聞は、ただの一誌もなかった。国によって人気のあるスポーツは違います。
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あの時三人エントリーしていた日本人選手の中で、高橋尚子はいちばん期待されていなかった選手だったかもしれない。
だから、この新聞の見出しは「日本の高橋は、あらゆる懐疑的な見方をした人々にたいして結果でこたえた」と、なっている。
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翌日の新聞を見るまでもなく、オーストラリアの人たちのマラソンに対する興味が低い事は、スタート直後に理解した。
テレビ中継なんかまったくされない。ラジオでも「女子マラソンが、ただいまスタートしました」と言ったきり、あとはなんの情報もくれない。
「で?今誰が首位なの??」我々日本からの応援団は、沿道でやきもきするが、現地メディアはなにも伝えてくれない。今みたいにネットは普及していない時代だったので、ついに、日本に電話!
スカイプもラインもなかったから高くつくけれどこれしかなかった。
「日本からの三人が先頭集団に居る」と知って、まもなくすると、サングラスをした高橋尚子をはじめ三人そろってやってきて・・・あっという間に目の前を通過してしまった。「はや〜い!」とびっくりしている暇もなく、ゴールへ移動を開始した。
電車でスタジアムへ向かい、オーストラリアでは数すくないだろうがマラソンファンが集まる席へ急ぐ・・・と、あれ?フィールドではのんびりした雰囲気で走り高跳びとかをやっている。
お客さんも「日曜のお昼前にのんびりしたいなぁ」という雰囲気。
ここにほんとにマラソンランナーたちが入ってくるの?とさえおもった。
フィールド種目の予選が行われている途中で時々、「女子マラソンがこちらへ向かっています」と、画面が切り替わる。
ほっ、やっぱりゴールはここでした(笑)
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高橋尚子優勝のシーンは、どこでも検索すれば見ることができるからここでは書かない。
この時には、金メダルの選手よりももっと大歓声で迎えられていた選手があったことを伝えたい。ここに載せた新聞からは、まさにその事が伝わってくる。
顔半分だけの写真しかなかった高橋尚子にくらべ、その下に六枚も写真を入れて紹介されているのは、最後から二番目の選手である。
彼女はふらふらでスタジアムに入ってくるなり、大歓声に感激し、まだ一周残っている事を忘れて地面に座り込んでしまった。イスラム教徒らしく神様に祈り始めたシーンが下の二枚。
彼女がなぜ、そんな大声援で迎えられたのか?
当時の政治的背景を知らなくては理解できない。
当時、東チモールという国はインドネシアから独立を宣言したばかりだった。インドネシアはそれを認めず、武力衝突が起こっていたのをオーストラリアが平和維持のために介入していたのである。
オーストラリアにとっては、はじめて自分たちが主体となる国際紛争調停。インドネシアの妨害から東チモールを守り、やっとの事で独立を勝ち得、IOCのサマランチ会長の裁定によってオリンピックへの参加を認めらていたのだ。
その東チモールの選手ならば、たとえビリから二番目であろうと、まさに参加している事に意義がある。
座り込んだ彼女は、そのうち気づいて立ち上がると、まさにウイニング・ランのようにフィールドを一周し、ゴールした。
オーストラリアの新聞がこういう取り上げ方をするのには、それだけの理由があったのである。