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日帰り函館下見
2014-07-10
台風八号の動き心配しながら、午前8時前の函館行に乗った。

9月27日に17人で一泊する幹事をしているので、その下見。

09:15に函館空港に到着して15時代の飛行機でまた東京へ戻るので、実質5時間ほどの滞在になる。

今回は人を介して個人タクシーのMさんを紹介してもらい、空港からずっとアテンドしてもらった。訪れた事がある街でも、ガイドしてもらって見えてくる景色は全然違う。おかげで、たくさんの知らなかった場所をおしえてもらった。

その中のひとつが、この碑。
後に同志社大学を創設することになる新島襄が、1864年、21歳の時にアメリカ船に密航した場所を記念している。
彼の人生において、いちばんの転機であったのは間違いない。

黒船来航の翌年の1857年、日米和親条約によって下田と共に開港した函館にはたくさんの外国船がやってきていただろう。

現在の函館港はこの桟橋から対岸に見えているあたりに移ってしまったが、当時はこのあたりが港の中心地だったのだ。

新島襄は、安中藩の江戸藩邸に勤務する侍の子として生まれ、自身も藩士であった。学問が出来たのでオランダ語、次いで英語を学ぶ機会を与えられ、藩命により藩の金で函館に留学させてもらっていた。

そんな立場の者が密航などすれば、残された「お家」は断絶間違いなし。それでも、アメリカへ行くという行為は恩知らず。それをどのようにして成功させたのか?

調べてみると、故郷には「函館湾の測量中にあやまって水死した」という報告がされていたのだそうだ。

なるほど、ただ自分の熱い想いだけを突っ走らせただけの人物ではなかった。そういう配慮が出来る人物でなければ、後に人々を束ねていけはしなかっただろう。

※この日の写真日記は下記からごらんください↓
http://blog.goo.ne.jp/komatsusin/e/08eebc8b2787b1445ac213adde777642

碑文には、彼の英語名も書かれている。

ミドルネームの「ハーディー」は、新島を乗せてくれた船のオーナーの家名。異国から密航してきた見ず知らずの若者を、わが子の様に援助してくれた。

「ジョセフ」というのも、親代わりのハーディー氏がつけてくれた名前で、それを縮めて「ジョー」そして「襄」という漢字をあてた。
つまり、この英語の名前の方が、彼の本当の名前だと言えるのかもしれない。



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