JAL041便パリ行は11/11の午前01:40に羽田を出発。
機内映画「少年H」。思ったよりずっと硬派な映画で、しっかり言うべき主題が語られていた。
その主題とは「自分に正直に発言・行動するのが難しい状況に置かれた時、どのように考え・行動すべきか」という事。
映画の時代背景が、主人公妹尾河童氏の子供時代=戦前から戦後だからというだけではない。今という時代に生きていたって、誰でもそういう状況に置かれる事はあるのだから。
さて、ここからが主題
*
映画の中で、主人公の父が神戸の居留地でヨーロッパから逃れてきたユダヤ人たちを見かけ、その衣服を修繕するシーンがあった。※妹尾河童氏の父は洋服の仕立て屋だった
ナチスのヨーロッパ占領にのよって西と南への退路を断たれたユダヤ人は、当時のソビエトを経由して満州⇒日本という逃避行をしてきた。先月訪れたリトアニアはカウナスの★杉原地畝記念館がすぐ頭に浮かんだ。
※下記日記参照
http://komatsusin.hopto.org/koma/modules/iDiary/index.php?mode=show&date=20131010杉原氏の発行した日本通過VISAを受け取った人が全員救われたわけではない。一人の人間だけで一人の人間の人生を救うなどということは、たいていの場合不可能である。
それぞれがVISAを持って広いソビエト領を移動し、持ち物を奪われたたり、何がしか理由をつけて捕えられヨーロッパの収容所に送られた人もあっただろう。
そして、逃亡ルートによっては当時の満州から日本を目指した人もあった。
ここで、最近読んだ「指揮官の決断」という本の主人公★樋口季一郎(のちの陸軍中将)という人物を思い出した。
彼はアリューシャン列島のアッツ島玉砕を心ならずも命令した後の陸軍中将である。悲惨なアッツ島の後、正反対の撤退作戦を海軍の木村昌福(のちの海軍中将)と協力して成功させている。
1938年には満州にハルピン特務機関長として赴任しており、この時に逃亡するユダヤ人達を助けたとされる。この年の8月、ドイツでは「水晶の夜」と呼ばれる襲撃事件が起こり、以降ユダヤ迫害がいっきに火急となる。だが、それより前にドイツのユダヤ人脱出ははじまっていたようだ。
1938年3月、ソビエトと満州の国境・オトポールで、シベリア鉄道でやってきたユダヤ人たちが入国を認められず立ち往生している事態が発生。
窮状を見かねた樋口氏はすぐに衣食の提供を行い、日本本国を説得して入国させる道をひらいた。以降このルートでたくさんのユダヤ人が日本を目指すことになった。
その中には1940年にカウナスで日本通過VISAをもらった人もいたに違いない。
そして、神戸に上陸して、妹尾河童の父がその衣服を修繕してあげた人もあったかもしれない。
VISAの発給、通過許可、服の修繕。
表題の三人の日本人は、それぞれの場所で、それぞれ自分に出来る事をしていた。
上司や時代や周囲の状況・人・世間。自分が正しいと思っている事をさせまいとする状況は、どこにでもある。そこでどれだけ波風立てずに(これが重要)結果的に自分の思う事が実現出来るようにもっていくか…難しいが、悔いない人生にする鍵はコレですね。