《手造の旅》バルト三国、二日目。リトアニアのヴィリニュスを出発しカウナスと「十字架の丘」を経由、ラトヴィアのリーガへ至る一日。
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1940年の7月18日から9月5日までの二か月に満たない期間に、ここで杉原領事代理が本国の指示に逆らってまで発給した日本通過ヴィザが、多くのユダヤ人たちをナチスの手から救った。
この話は近年教科書にも載せられて、知られるようになってきた。
本で読んで知っていても、実際に訪れてから知る事・感じる事は(気持ちがある人にとって)いろいろある。
たとえば、この実際に存在したゾフィー・フィンケルシュタインという人のパスポート。言われてみれば当たり前なのだが、ナチス・ドイツが発行していた。そうなのだ、ドイツから脱出したユダヤ人たちの身分証明書は、ナチスが発行したパスポートしかなかったのだ。
彼女は1914年2月7日生まれ、ここカウナスへ逃れた来た時には26歳でエディスという二歳の女の子を連れていた。この場所で得た日本通過ヴィザがこの二人の命を救うことになった。
日本領事が「通過ヴィザ」を発行できるための条件は、まず第一に日本以外の行き先がはっきりしていなくてはならない。ここで妙案を思いついたのはカウナス在住のオランダ領事だった。オランダ本国はすでにナチス・ドイツに占領されていたが、オランダの海外領土であるカリブ海のキュラソー島へならば渡航VISAを発給可能と判断し、ユダヤ人脱出の道を開いた。これは実際に行く事が可能かどうかではなく、脱出させるための方便としてのヴィザである。
※思い出したのが、ナポレオンに占領されていた時代のオランダ。この時に日本の「出島」行きのヴィザを発給したようなものかしらん?いや、時代が違いすぎますね(笑)
杉原氏は最初、このキュラソー・ヴィザを持っている人だけに通過ヴィザを発給していたが、いったん外務省の判断を無視する決心してからは、キュラソー・ヴィザを持たない人にもどんどん与えていったようである。
★ほとんどの働く人は、たいてい上司を持ち、その指示に従って仕事をしなくてはならない。しかし、その指示に従う事が、自分の信念に照らして容認できないと思ったとき、どう行動するのか?
これは、時代や場所が違っても誰もが考えてみるべき命題である。
カウナスを訪れる日本人は「杉原記念館」で、こんな事を考えてみてほしい。
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リトアニアの現在の首都はヴィリニュスだが、1920年7月から10月にかけてのソ連とポーランドの取り合いの結果、一帯は1939年までポーランドに占領されていた。この間、カウナスがリトアニアの首都となっていた。
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