先月、5月25日に訪れた大郷町にある支倉常長の墓の写真。
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「おぬしには、そろそろ死んでもらわねばならぬ。」
1622年(元和八年)、キリシタン弾圧はいよいよ苛烈になっていた。
その約十年前、支倉六衛門常長は、主君伊達政宗の命により百八十名を率いて仙台を出航。太平洋を渡りメキシコを経由、大西洋を渡りスペインでフェリペ二世に謁見・洗礼、ローマでは法王にも会い、ローマ市民権も授与された。 足かけ八年の苦難の旅の末、キリスト教弾圧に舵をきった祖国に密帰国。以来二年、政宗の説得にもかかわらず棄教せずにいる。この頑固な忠臣を、政宗はどうしたものかと思っていただろう。
徳川家康という清濁併せのめる大御所はすでに没し、政宗自身もまた老いた。この頑固な忠臣の身を守ろうとするならば「名を亡きものとして、身を生き延びさせるしかない。」政宗がそう考えたとしてもおかしくない。 支倉六衛門常長は、この年に死んだことになった。享年五十一歳。
先月5月28日、仙台バスツアーズが主催する「支倉常長を巡る旅」に参加した。近年見つかった、支倉の三つ目の墓と呼ばれるものは、山の中の小村にあった。仙台市から北へ一時間ほどの大郷町。「支倉メモリアルパーク」と名付けられ、佐藤忠義作の支倉像も置かれてはいるが、周囲はいわゆる里山で、まだまだ観光地になってはいない。
この地は、支倉家の知行地のひとつで義弟の家臣だった伊藤氏が管理していた。町役場の担当者でこの墓を「発見」した方が訥々と話をされる。仙台から同行していた八十歳の支倉協会会長が途中から話し出す。
「死んだことにして、ここさ住んでたのかもしんねぇな。よくかんがえっと、墓が寺にあるわけねぇっぺ(支倉の墓といわれる他の二つは、ともに寺の中にある)」
墓石に記された承応三年という年に支倉が密かに没したとすれば、享年は八十二歳となる。
村では、昭和の初期に小学校の先生がつくった「支倉常長の歌」が愛唱され、今も防災無線のメロディに使われているという。歴史から抹殺されていた時代にも伝説はずっと生きていたのだ。
今年2013年は支倉が出航してから四百年という記念の年。支倉が持ち帰った四十七点の品々は2001年、国宝に指定された。これらとヨーロッパに残るゆかりの品々を合わせて、日本ユネスコは「世界記憶遺産」に推薦した。この申請が認められれば、この支倉常長三つ目の墓にもたくさんの観光客が訪れるようになるだろう。
支倉の使節団が求めたスペインとの通商は当時の時代の波に翻弄され失敗した。 拠り所にした信仰も秘し続けねばならず、支倉自身は失意の晩年の後に没したのかもしれない。
それでも、支倉が強い意志で成し遂げたその旅は、彼の故郷の日本人によって、しっかり記憶され続けている。