コンスタンチノープルの正式門「黄金の門」は、現在オスマントルコ時代の「イェディクレ(七つの塔)」と呼ばれる監獄要塞の一角に組み込まれている。※パノラマ写真はこちらの日記から拡大してご覧ください。
http://komatsusin.hopto.org/koma/modules/iDiary/index.php?mode=show&date=20120925この要塞はオスマントルコ時代にスルタンが暗殺される事件の舞台となったことがある。
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1618年叔父のスルタン・ムスタファ一世が精神病のため退位させられ、わずか14歳で即位したオスマン二世は「ゲンチ(若い)」とあだ名されたが、周囲が思うようには操られなかった。
ハーレムで聡明な母(マリアという元ギリシャ人とされる)に育てられ、アラビア語、ラテン語、ギリシャ語、ペルシャ語、イタリア語、に通じた、意志のある若者に育っていた。
即位後、すぐに彼は外交・内政に自分の考えを反映させるようになり、成果もあげていく。1621年にはコティン(現ウクライナ領)にてポーランドとリトアニアの連合軍との戦争を主導。実質的に引き分けだったような戦いだったが、その時のイェニチェリ(トルコのエリート軍事団)の動きに大いに不満を感じた。
イスタンブル帰還後、イェニチェリ改革を実行しようとしたが、それを察知したイェニチェリ側が先手を取り、オスマン二世を拉致、この要塞にて殺害した。
若いスルタンは処刑人に対しても大いに抵抗し、最後はレスラーによって絞殺されたと言われている。耳が切り取られ、母の元に送られたとか。(※前年の1621年に母は死去していたと書かれたものもあった)
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要塞を訪れると、廃墟になった建物には意外にたくさんの部屋があり、それぞれがちょっとしたお化け屋敷のようである。
ゲンチ・オスマン二世が暗殺されたとされる部屋は、写真上の場所・かつての「黄金の門」へ上がっていく途中にあった。