トルコ・イスタンブル観光のハイライトのひとつに、通称「地下宮殿」(実は古代の貯水槽)がある。
暗闇に林立した336本の柱のうち、奥まったところにある二つに巨大なメドゥーサの首が使われている。※写真上がその拡大図⇒この顔は逆さに置かれているので、ここでは写真を逆さにしてあります。
今回、イスタンブル考古学博物館の庭で、その二つとまったく同じものを見つけた。※写真下がその拡大図
考古学博物館にあるものは、どこかからの発掘品だろうと誰も理解するだろうが、「地下宮殿」についてははじめからその場所のために彫られたと誤解する人もある。あそこは貯水槽だったのだから、真っ暗で時に水没してしまい、誰の目にもふれない場所だ。ただ石材として他にあった場所から流用したと考えるのが自然だろう。魔除けとして使ったという説もあり得る。
では、どこから持ってこられたものなのか?
今回のガイドさんが「地下宮殿」を案内してくれた時に、「メドゥーサはカルケドンの街から持ってこられました」言っていたので、考古学博物館でカルケドンの歴史の説明を読んでみた。
古代カルケドンの街はイスタンブルの向かい・アジア側の町の地下深くに埋まってしまって遺跡としてさえも見ることが出来ない。
しかし、1987年の道路工事の時には紀元前6〜4世紀の石棺六つと数々のテラコッタやコイン類が発見され、これらが考古学博物館に展示されている。
★カルケドンの歴史について、考古学博物館の解説を要約してみる
紀元前680頃に現在のイスタンブルに移住してきたギリシャはメガラからの移民たちは、対岸のColpusa(より以前にはPorocerastisと呼ばれた)の街をカルケドンと呼んだ。これはギリシャ語で「盲目の人の街」という意味。より立地の良いイスタンブルでなく対岸の場所を選んだ彼らを馬鹿にした呼び名であったわけだ。
紀元前416年Bthyniaビティニアとと対立しビザンティウムと共に共闘
紀元前410年アテネとスパルタの戦いにおいてはスパルタに味方して敗北
紀元前357年ビザンティウムにより支配されるようになる
ペルシャ戦役でペルシャに制服される。
紀元前334年アレキサンダー大王による征服
紀元前306〜281年ThraceのLysimachosによる支配
紀元前202年マケドニアのフィリッポス五世による支配
そして、ローマ領ビティニア州の一都市となる
紀元後258年にはゴート人による破壊
この時にかなりダメージをうけたと思われる。
★紀元後365年ローマ皇帝ヴァレンスによって城壁が撤去され、その石材がコンスタンチノポリスの水道を整備されるのに使われた。
最後のヴァレンス帝の項目、これだ!
これがこのメドゥーサの石たちがカルケドンの宮殿から動かされたタイミングになるにちがいない。
「地下宮殿」貯水槽がつくられたのはユスティニアヌス帝の時代・6世紀だから百年と少しの年月差があるが、この間にこれらのメドゥーサがどこに置かれていたのか?それは、分からない。