写真は東本願寺。それにしても浄土真宗という日本最大の仏教派閥は何故東と西の二つに分かれているのだろう?少し調べてみると、戦国の動乱に翻弄された親子兄弟が見えてきた。
1573年、浄土真宗の第十一世法主顕如は、現在の大阪城の地にあった石山本願寺において織田信長と交戦状態にあった。
戦もすでに三年目に入り陥落の危機が迫る。顕如は信長からの講和を受け入れて本願寺を退去することに決める。しかし、長男の教如は徹底抗戦を主張。結局その対立は解消されることなく、父顕如は長男・教如を義絶することになった。
この時の年齢をしらべてみてびっくりした。父・顕如は三十歳、長男・教如は十五歳でしかない。若い父子にどんなやりとりがあったのか、思わざるを得ない。
この時の対立はその後もずっと尾を引くことになる。父に義絶されてまでも信長に抵抗することを主張した若き教如は、きっと教団の中において人気があったのだろう。その後も失脚したりせず、父と対立する一派をひきいていた。人はだれでも「権力に妥協しない姿」にあこがれる。
1592年末に顕如が没すると、その義絶された筈の長男教如が教団を継いだ。十九年前の合戦で父に従って早々に石山本願寺を退去していた家臣を(戦国大名のような表現だが、実際にそういう存在だった)受け入れず、浄土真宗は本格的な分裂状態に陥っていく。
1593年、豊臣秀吉はこの教如に十年後の引退を約束させようとするが拒否され、即時の引退をさせられてしまう。弟の准如が法主となる。
1598年に秀吉が没し、1600年関が原の合戦。教如の一派はは当然徳川家康に味方。
戦後、家康は教如を再び教団トップにするよりも、教団内の対立をそのまま温存して弟准如のひきいる一派と別の教団に据えるのが得策と判断。京都烏丸に土地を寄進してそこを本拠とするようにした。これが、現在の東本願寺。
もとをたどっていけば、ひとつの戦においての父子対立が、この東西本願寺の分裂の根っこにあったのである。