きのう夕方、鎌倉から約三時間の列車の旅で18;33に新潟へ到着。19時からの会食にすべりこんだ。ちょうど二十年前の旅仲間の集まりである。チェコ、イタリア、それにカナダはケベック州の町を訪れて、それぞれで学校を見学するおよそ一ヶ月の教育視察の旅だった。小松はもちろん「添乗員」さんとして同行していたわけだが、その後も毎年の集まりにこうして声をかけいただき、ひとりの仲間として話が出来る事は本当にうれしい。
二十年前、いちばん若手だった先生もついに今年で引退するという。二十年もあっという間に感じられる。昨年はこのグループの同窓会ツアーでヨーロッパへ《手造の旅》の旅をつくった。
仕事であっても、どんな関係で知り合ったとしても、人と会って対応する時に誠意を尽くす事に変わりはない。仕事の顔と私生活の顔をつかいわけるような器用な事は、私にはできない。
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明けて、今朝。せっかく新潟へ来たのだからどこか一箇所でも見学していこう。幹事の計らいで専用バスをだしていだき、08:45新潟「北方民族資料館」へ到着。ここは江戸から明治にかけての豪農、伊藤家の屋敷である。百三十年前に建築されたすばらしい日本建築がその庭と共にほぼそのまま残されている。
「みなさん、えらく早いですね」ちょうど同じ時刻に駐車場に到着した車から降りてきたのは地元のガイドさんだった。 「せっかくだから開館前にこちらをご案内しましょう」と言って、彼はすぐ近くの記念碑に我々をいざなう。「意外かもしれませんが、ここは『坂之上の雲』の秋山好古と関係があるんですよ」 角を曲がるとすぐに大きな「忠魂碑」が目に入った。
※以下、ガイドさんのお話されたことを要約して記します。
秋山好古は二ヶ月という短い期間だったが新潟に赴任していた。それが縁でこの越川村から多くの兵士を日露戦争へと従軍させる事になった。勝利のカギとなった旅順攻防戦闘。はげしい戦闘の後、生存確認するために全員の名前を呼んでいくと、越川からの八十三名からは誰一人返事がかえってこなかった。自分と知り合うことで結果的に命を落としたと、秋山は彼らを追悼するためにこの石碑が建てた。そして中将という位にあったにもかかわらず、代理ではなく自らが此処へ赴き、遺族達に哀悼の意を表したということである。
後日ネットで調べてみると、この周辺ではここだけでなく、いくつかの場所に秋山が建立した忠魂碑があり、人々はその由来を今も大切にしているそうである。
となりの北方民族資料館は地元の観光バスが必ず訪れて、ガイドさんが内部を案内する段取りになっているが、すぐとなりにあるこの石碑はまったく注意が払われない。
朝少しだけ出発したおかげで、知ることが出来た逸話である。