夜行列車は朝8時にイスタンブルのアジア側ハイダル・パシャ駅に到着。
駅の目の前から船に乗り込み、混雑する道路を通らずにヨーロッパ側へわたる。せっかくチャーターする船だからボスポラス大橋やルメル・ヒサーリ要塞のあたりまでクルーズする。
ヨーロッパ側へ上陸してすぐにバスで西へ向かう。
今日はトルコの西の端、ギリシャとブルガリアと国境を接するエディルネの町に泊まるのだ。
※エディルネについては下記政府観光局の案内が分かりやすいです。
http://www.tourismturkey.jp/guide/marmara/marmara_edilne.htmlエディルネは古代ローマ五賢帝のひとりハドリアヌスの名前が変化したもの。だが、今回我々がここを訪れる目的は、ひとえにスレイマン大帝の下で活躍した建築家ミマル・シナンの最高傑作とされるセリミエ・モスクを訪れる事にある。
イスタンブルから途中昼食休憩をはさんで約三時間。
はっと気付くと左の丘の上に四本の美しい塔とドーム見えていた。
「セリミエ・モスクだ」
アヤ・ソフィアのドームを超える大きさのドームばかりがアタマにあったが、スマートな四本のミナレットのバランスの良さがまず目に印象的。
シナンの技術力は大きなドームを出現させる事が目的なのではなく、すっきりとバランスよく、居心地快適な空間を出現させる事に向けて発揮されたのだ。
遠くからこのシルエットを見て、中にも入っていないのに直感的にそう感じた。
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ブルガリアとの国境手前にはたくさんのトラックが並んでいる。EUとの境目にあたるからこの場所の監視はやはりきびしい。複合国境でなく、両国の手続き建物は少し離して置かれている。
道路の左を伴走していた川の向こうがギリシャとなる。
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エディルネの町に入る手前に15世紀のスルタン・バヤズィットが創立した精神病院を訪れる事にする。日程には入れていなかったが、余裕があれば是非見てもらいたいと思っていた場所である。
西欧ではまだ「精神病」の概念さえ確立されていなかった時代に、症例と対処法を明確に整理しようとしていたのが分かる。
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エディルネ市内に入り、バスはいきなりモスクのすぐ横にある駐車場に止まった。その威容は近くにあってさらに迫力を増す。
が、「迫力」は四本のミナレットが与える印象であるようだ。
ドームそのものを冷静に見れば(あとからそう思ったのですが)巨大というよりもすっきりとスマートに空間に立ち上がった造形ではないだろうか。
大ドームの迫力という点では、イスタンブルのアヤ・ソフィアがやはり上位にある。
内部に入って空間を見上げる。
大きさよりもそのすっきりとした明るいまとまりが美しく目に映る。この空間がアヤ・ソフィアに「負けている」わけではないと分かる。全く違った価値観でつくられているのだ。
このモスクは迫力や天蓋の直径というものでアヤ・ソフィアを超えようとしたわけではないのだと、シナンが言っているようだ。
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モスクから歩いてチェックインしたホテルは名前のままの「キャラバンサライ」だった。古い城壁が中庭を守り、地上階にはかつて馬やラクダと荷駄を置く場所だった。二階のかつて商人や巡礼が寝泊りしただろう部屋が我々の部屋に改装されている。
旧市街のど真ん中のこの立地なら、セリミエ・モスクの夜景を見る事も出来るだろう。
夕暮れになり小雨がぱらぱら落ちてきたが、旧市街をゆっくり散歩した。
セリミエ・モスクのある場所から川に向かって下っていく道。
ハドリアヌスやオスマントルコが建設した町の中心は間違いなくこちらの方にある。現在の地図での道を見ても古代の町のあとがみてとれる。
夕暮れてゆく道。
家並みから少し入ったところにあるドームが目にとまった。
そこへ出入りする間口は小さいが[MAYHANESI〕と書かれている。
これは古い言葉でワインを飲ませる雰囲気の場所の事だと
、ちょうどきのう教わったばかりだった。
ちょっと覗いてみると、15世紀以前にさかのぼるハマム(トルコ式の浴場)だった事がわかる。床の一部がガラス張りにしてありその遺構を見られるようにしてあった。
「ちょっと一杯だけどうでしょ?」
ほんの三十分もいなかったけれど、こういう時間が町の雰囲気をずっとずっと記憶させてくれる事になる。
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5月後半にもなると暗くなるのは遅い。
21時少し前にセリミエ・モスクの所まで戻るとようやく期待していたライトアップがされていた。
暮れ残りの濃い蒼が残る空にきりっと屹立する四本のスマートなモスク。雨も上がり、見飽きない時間が過ぎてゆく。