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浦上街道を歩く
2010-03-17
4月16日の「長崎を歩く」後半〜

二十六聖人殉死の地・西坂で旧道・浦上街道の案内版に興味をひかれ、午後の行程はこちらを行くことにした。どうにも歩いてみたくなる小道だったから。
気ままにルートを変えられるのも一人旅のたのしみである。

浦上街道とは、大村湾に面した時津港からはじまって長崎に至る。山肌を細い道がくねくねと続く。海岸線が山近くまで迫っていた昔、この道はメインストリートだっただろう。

京都から護送されてきたキリシタン殉教者達もまたこの道を歩いた。

途中にぽつりぽつりとお寺や西国巡礼の札もあったが、特に小松が目を魅かれたのは
http://komatsusin.hopto.org/koma/modules/myalbum/photo.php?lid=1915&cid=206
***

もうすこし進み街道は下り坂になり、道が広くなった。
左側の芝生に古い十字架のある墓石が見えた。外国人も葬られている墓地だとすぐに分かる。看板を見ると「坂本国際墓地」とある。

入り口の案内板を読むと、なんとユダヤ人のための区画までがあった。
http://komatsusin.hopto.org/koma/modules/myalbum/photo.php?lid=1919&cid=206

さらに、フランス人やベトナム人のための墓地まで発見。
説明によると、これらは1900年清朝末期に起きた「義和団事件」の犠牲者だという事である。

グラバー邸で有名なトマス・グラバーと彼の息子で日本人の母を持つ倉場富三郎の墓もここにあった。

混血の富三郎は、同じく西欧人と日本人の混血だった女性と結婚して戦争中も生き延びていたのだが、第二次大戦が終わった約二週間後に自殺した、と案内板に書かれていた。
・・・何が彼をそうさせたのだろう。

****
さらに進むと浦上地区の入り口に至る。
山王神社の有名な片足鳥居への案内板がある。
参道階段の途中にそれはたっていた
http://komatsusin.hopto.org/koma/modules/myalbum/photo.php?lid=1918&cid=206

そして、参道を登りきると境内の入り口にこの写真の巨大な楠が立っている。

被爆直後の様子が写真下。
ほんとうに街が壊滅していたのがよくわかる。折れて焼かれてしまった二本の楠の右に埋もれてしまった片足鳥居も写っている。

二本の木はもうだめだと思われていたが、原爆の二年後に芽を出して復活。大規模な補修をして現在は大木として甦っている。

*****
「長崎大学医学部の門柱」へも行ってみた。
巨大な門柱が爆風で傾いてしまっている。

******
浦上天主堂の標識が出てきて浦上街道とお別れし、教会を見学に行く。丘の上にレンガの聖堂が見えてきた。
浦上天主堂は1981年のヨハネパウロ�鏡に々弔陵菲�を機に、被爆前のレンガの外装に変更されている。

内部は簡素ながら美しく静謐が保たれている。二十六聖人の記念日に近い二月の雪の日、ここでヨハネ・パウロ�鏡に々弔脇�本語で信者に語りかけたのか。

いくつか浦上地区の歴史に関する本が置かれていて、知らなかった長崎キリシタンの歴史に、またひとつ触れる事ができた。

浦上地区は江戸時代が終わってからも「浦上四番崩れ」と呼ばれるキリスト教迫害が強烈に行われた。徳川幕府の禁教は、明治政府の神国日本にとっても都合の悪いものだったのである。

二百年以上潜伏していた信徒達は、信仰を告白し安心して信仰する時代が来たとおもったけれど、明治政府は全村民を日本全国へばらばらに追放、島流しにした。この禁令は明治六年に解除されるまで続いたのだった。

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長崎大学医学部まできたということは、ここから永井博士の住んだ如己堂も近い。平和記念公園へ行く前に寄って行く事にした。

二十年前、長崎のバスガイドさんの朗読する「この子を残して」に何度泣かされた事か。今でも、いや、今ならなお、永井博士の気持ちをよく理解する事ができる。

如己堂はかわらずそこにあった。さらに、今日はそこにあった案内版で新たな事実を知った。永井博士が住んでいた場所はかつて隠れキリシタンのリーダーである「帳方」といわれる一族の住んでいた場所だったのである。 

この一族は「浦上三番崩れ」と呼ばれる迫害で摘発され獄死したそうだが、永井博士の夫人・みどりさんがその末裔にあたる。

キリスト教者としても有名な永井博士がここに居を定めていたのは運命的な導きだったのかもしれない。

********

平和記念公園に入ろうとして、その敷地を囲む破壊されたコンクリート塀に気付いた。

この公園が元々刑務所があった場所である事など、案内板を読むまで知らなかった。木造の獄舎は全壊し受刑者や刑務官134名全員が即死した。
敷地を囲っていた高さ4mのコンクリート塀も根元を残して吹き飛ばされてしまったのである。



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