長崎を一日歩いた。
二十数年前には国内ツアーの仕事で何度も来たけれど、完全に自分の意志でやってきたのは大学二年の時以来およそ三十年ぶり、か。大阪からオートバイで山陰を経由して九州ツーリングをしたのだった。
昨夜羽田から長崎空港に到着した時には雨が少し残っていたが、今朝は良い天気になっている。しかし、風はぐっと冷たくて、家を出る時コートを持って出てよかったと思う。
マフラーに毛糸の帽子も入れてきたが、その出番はあるかどうか。
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新地近くのホテルからまずは歩いて出島へ。
ポルトガル人居留地として建設され、その後オランダ人が住んだ人工の島は、最近まで埋立地に埋没していた。復元計画が始まる以前には地図で見ても痕跡も定かでないほどだった。
かつての出島をなんとか復元しようという試みは、つい最近の2003年からやっとはじまったばかりである。
発掘の結果かつての石垣の基部が見つかり、たんねんに解体して補強して再度積みなおし。その上に新たに壁を築き、壁や門を再建。
http://komatsusin.hopto.org/koma/modules/myalbum/photo.php?lid=1916&cid=206地図上でも視覚的にも「出島はここだ」と分かるものになり、今では入場料をとって見せるだけのものになっている。修学旅行生が今日もたくさん来訪している。
朝8時より開館していたが、9時少し前になるまでほとんどひとりで展示物をゆっくり見ることが出来た。
十字架文様のついた瓦の破片や、オランダ東インド会社のマークVOCのついたコインや大砲。 ヨーロッパへ輸出された磁器や酒・醤油の壷。女性用のかんざしの破片などもある。
出島を最終的に再び「島」として再構築する計画もそこで紹介されていたが、そこまではかなり遠い道のりだろう。
オランダ人たちが住んでいた住居も再建されている。
靴を脱いで入る日本式畳の住居。異人さんも郷に入っては郷に従っていたという事か。
内部調度品など丁寧に復元されていておもしろいが、気になったことがふたつ。トイレと暖房がない。
ガイドさんに尋ねると
「トイレは外につくられていたようですが、正確な場所はわかっていません。 暖房は火事の恐れもあって(実際何度も火事をだしている)本当に無くて寒かったと思いますよ、ほれ、あれぐらいじゃね(と、机の下の小さな炭箱を指差す)。きっとこっちで(酒を飲むしぐさ)しのいでたんでしょう(笑い)」
また、建物には内部に階段がなく、ただ箱型の部屋が続いているだけのごく単純な構造をしていた。階段は基本的に外部に設置されていた。なるほど、こういうのは昔のヨーロッパの建物でも同じようです。
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出島から路面電車で長崎駅前まで移動。
全線120円というのは安くてしかも利用しやすい。
長崎駅前にきてみると山がすぐ近くに迫っていて、その頂上まで住宅に埋め尽くされているのが意外だった。さらに、たくさんの墓地が同じ斜面に見えている。西坂あたりが刑場だったことがその理由なのかもしれない。
坂を上って今回いちばんの目的地である「二十六聖人殉死の地」へ至る。学校のグランドの様にひらけた場所に、舟越保武の作成した26人のレリーフ銅像が手をあわせて天に祈っている。写真でみていたよりもずっと良く出来た像だと思った。
ここに併設されている記念館に長谷川路可という画家の描いた大フレスコ画が残されている。これが今回いちばんの目的物。
4月の《手造》イタリア小都市めぐりで訪れるチヴィタヴェッキアにある「日本殉教者教会」にも彼が描いたフレスコ画がたくさんあり、それをよりよく見るための下見として長崎を訪れることにしたのだ。※写真はその部分。右下に小さく「路可」と書いて自分を描きこんでいるのをみつけた。
建物や説明パネルは古びている。1981年にヨハネ・パウロ二世法王がやってきた時にはまだ新しかったのだろうけれど、展示もずっと変わっていない様子だ。
出島であったような三次元ビデオもなければ、タッチパネルも体験コーナーもない。
しかし、みかけがきれいになっている展示や博物館が良いというわけではない。
ここは長崎が大村純忠によりイエズス会に寄進され、「日本のローマ」といわれるほどのキリスト教的繁栄をみせていた時代から、豊臣により布教禁令が出された1587年以降、徳川時代へと続く迫害の時代の事を、そこにある物体で理解させてくれる。
なにより、いちばん胸に迫るのは殉教した信徒の手紙や逸話。
信仰というのは本来最初から最後まで個人的なもののはずだから、歴史上の出来事として年号をつけて記憶されるようなものではない。
ひとりひとりの信徒の胸に去来していた苦しみやあるいは喜びのかけら。そういったものを感じられる場所である。
長谷川路可もまたキリスト教信者としてあの場所に大壁画を描けて幸いだっただろう。
見学を終えて出る時、「長谷川路可さんのもの何かありますか?」と受付に訊ねたが、はがきのひとつもなかったのは残念である。
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西坂を出て歴史博物館へいくつもりだったのだが、「浦上街道」の案内板を見て急にそちらを歩きたくなった。
浦上街道は時津港から長崎へ至る旧道で、まさに二十六聖人達もそこを歩いてやってきた筈の道である。くねくねと坂の斜面を上下しながら続いていく道は階段も多く、自動車は入ってこられない。
「入り口をすこしだけ歩いてみようか・・・」と歩き始めたら、そのギリシャの島のような道(おおげさ)が楽しくて、けっきょく浦上地区まで歩いてしまうことになった。
→後半に続く