この布に描かれた絵もスキポール空港に展示してあった。
出島は1636年になって建設され、最初はポルトガル人が居住していたが1637年の島原の乱の後追放され、1639年からはオランダ人のみが西欧人として居住を許される事になった。
オランダの三色旗がこの絵でもしっかり描かれている。
しかし、基本的にオランダ人はこの島から出ることは許可されていなかった。
例外は年に一度、通称「オランダ風説書」という世界の時事報告を江戸幕府に届けるための旅だけ。
こう考えるとシーボルトがいかに特別な人であったのかがわかる。
日本人女性お瀧と結婚し、彼女の出産時には医師として出島内で娘をとりあげた。
一般の人々の病気も診てやり、鳴滝に塾を開いて日本人医師に西洋医学を伝えようとしたのだから。
シーボルトは商館長と共に江戸まで行っており、その旅路で精力的に資料を集め、克明に記録をつけている。