歌舞伎座にて「元禄忠臣蔵」の夜の部を観覧。
●「南部坂雪の別れ」
大石内蔵助が主君の未亡人が住む南部坂の屋敷を訪ね、仇討ちの意志があることを慎重に隠し続け、それによって罵倒されたりするのを忍従する。いかにも日本的な美学と言えるかも。
未亡人瑤泉院は実際には二十九歳という設定なのだそうだが、どうみても大年寄りの雰囲気で登場。設定年齢とのギャップはあったが抑えた感情表現が台詞の端々に感じられてさすが。※あとから知ったのですが人間国宝の七代目中村芝翫(しかん)という昭和三年生まれの方でありました。
歌舞伎では「どぉんどぉん」という低い太鼓の音がずっと続いている事で、雪がずっと降っている状景を表している。紙ふぶきだけではなく音でも雪を表現するのだ。この太鼓の速度は上方のほうではゆっくりで関東ではもっと早いという違いがあるとか。
●「大石最後の一日」
この題名を聞いてすぐに思い出したのが、芥川龍之介の小説「或日の大石内蔵助」である。実際作者はこの小作品に着想を得たのかもしれない。
仇討ちが成功し、公儀の御沙汰がでるまでの間の志士達を描くと言う発想は物語作者として誰もが興味を持ちそうな主題である。
しかし、この二作品は全く違う。
歌舞伎は役者を魅力的に見せる為の舞台なのだから、小説のように淡々と物語が進んでいるだけでは成り立たない。 同じ「仇討ち後」という土台をつかっていても、全く違う主題と展開がされている。
歌舞伎でおもしろいのは、大石はじめ志士の抱いている仇討ちの志に対して、ひとりの女の志を対峙させたところだ。
志士のひとり磯貝十郎左衛門はカムフラージュのために「おみの」と結婚の約束をする。
討ち入りが行なわれた後で自分が利用されていたと知った「おみの」は、自分がほんとうに利用されただけなのか、確かめる為に彼にひと目会いたいと考える。 磯貝にほんとうには自分を想う心があったに違いないと信じている。
ここで男女における「一念」の置き所の違いを感じざるを得ない。男が「義」に死のうとするのなら、女は「愛」に命を賭けるのだと。
男女の方向のこういった違いというのは、男女同権だとか機会均等法だとかそういう次元ではまったくない。
男女の心の比重の置き所が心情的に違っているというのは、…現代に至っても何も変っていないのかもしれない。
※磯貝十郎左衛門の遺品から琴の爪が発見されたと言うひとつの事実からこれだけの作品をつむぎだせる手腕は見事だ。「真実」などというものは、どうせ藪の中でよい。
下記にとてもよく書かれた批評があります。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/sakuhin79.htm