空港から市内へ入る三叉路に立つファーグム王像。
1353年にラオスの統一王朝を創設した、いわばラオスという国の開祖である。
ヴィエンチャンの空港から市内へ入っていくバスの窓からこの像が見えた。地図で調べると「あ!あれがファーグム王だ」と分かったのだが、もちろんバスは止まってくれない。この一枚のシャッターを押すのが精一杯だった。
※下調べしていっても、限られた半日や一日の観光では見られないところも多い。心残りで終わっている場所が世界中にたくさんあるのだけれど、この像を近くで見上げる機会ももう一生めぐってこないかもしれないなぁ…。
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ラオスから帰国して、あらためてラオスの歴史を調べている。
インドシナというとベトナムやカンボジアについての本は日本語でもけっこうあるが、ラオスとなるとほとんどない。ガイドブックも英語版と比較していくとかなり違って書かれていることもある。
「いったい何がほんとうなんだ?」
と思うけれど、それは誰にもわからない。
ラオスの通史なんてややこしすぎてとても摑みきれない。
それでも、国を造って来た人物の物語はその国を理解するためにとても重要なので、自分なりに納得できるところまでは追ってみる。
そうすると、このファーグム王の波乱の生涯がだんだん見えてきた。
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ファーグム王は子供の頃、カンボジアのクメール王国で育っていた。彼の父親チャオ・フィー・ファがそのまた父(つまりファーグムにとっては祖父)の奥さんの一人(多分たくさんいたんでしょう)を誘惑した罪で追放になったのである。
現役の王である祖父が息子と孫を追放してしまったということだ。
カンボジア、クメール王国へ逃げそこで亡命生活を送っていた父子だが、やがてファーグムは成長しクメールの姫と結婚する。
そして、クメールの軍勢一万を率いて自分の祖国を奪回し、今度は祖父王を追放してしまった。
さらに、同じ民族だった別の二つの王国も併合し「ラン・サン・ホン・カオ(百万頭の象)王国」と名づけた王国の創始者となる。
※この王朝は紆余曲折あるけれど1975年の社会主義革命まで続いていた。
ファーグム王はもともとは現在タイ領土になるチェンマイの出身かと推察される。タイ族とラオ族は厳密な区別が難しく、歴史的にもチェンマイの王国がラオ族のものだったのかタイ族によるものだったのか、長く議論されている。
こういう議論が結論になど至らないものであることは、誰もが周知なのだろう。それでもこれが重要なのは、バンコクのエメラルド寺院にあるエメラルドの仏像の帰属にかかわる事だからかもしれない。
1828年にヴィエンチャンを略奪したタイ軍は、寺院にあった「黄金の仏像」と「エメラルドの仏像」をバンコクに持っていってしまった。
「黄金の仏像」はカンボジア王家から贈られたもので、後にバンコクから返還され現在ルアン・プラバンにおかれているが、「エメラルドの仏像」はそのままバンコクにあり、観光地の目玉になっている。
元はチェンマイの王朝からルアン・プラバンに持ち込まれたものだと言われている「エメラルドの仏像」だから、チェンマイがラオ族の王朝だったのかどうかで、タイが「略奪」したのか「取り戻した」のか、まったく違う事になるのだ。
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ファーグム王は征服王と呼ばれ、その二十年の支配時代にランサン王国はタイ北部にベトナム、ミャンマーの一部も支配する強国になっていく。
しかし、歴史はこういう時代を動かす人に同じような末路を用意している。ファーグム王は信長の様な人だったのかもしれない。
1373年臣下に反乱を起こされ現在タイ領の北部にあたるNamという地に幽閉され、そこで生涯を終わることになったのである。