
朝9時半のフライトでヴィエンチャンから古都ルアン・プラバン(現代ではルアン・パバーンと呼ばれる事が多い)へ移動。到着後、フランスが都市計画した旧市街を見学。メコン川とそこへ流れ込む支流ナムカーン川が合流する場所に出来た半島状の場所が旧市街である。
「フランスが都市計画」と聞くとどんなしゃれた町並みなのかと想像してしまうが、実際のところコロニアル風の平屋が並ぶ田舎リゾート。こぎれいなヴィラホテルやお土産屋、レストランもあって、ヴィエンチャンに比べると格段に歩いている欧米人比率が高い。
ゆっくり滞在して、のんびり歩きたい町並みである。
見学に入ったのは、美しい屋根をもつワット・シェントーン。
今はバンコクにあるエメラルドの仏がルアンプラバン遷都前に安置してあったワット・マイ。
そして、その隣に位置するこの写真の旧王宮。
地元の人々は、かつての王族の幽霊がでると噂しているとか…。
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ラオス最初の統一王朝は1353年に三つの地域を統合したファーグム王が「ラン・サン・ホン・カオ(百万頭の象)王国=通称ランサン王国」を宣言したのを始まりとする。
地理的に最大になった17世紀にはタイ、カンボジア、ミャンマー、ベトナムのそれぞれ一部も支配した。後年には逆にそれぞれの隣国に攻め込まれたり、内部抗争で負けたほうが亡命したり、婚姻関係を結んだり、かなりややこしい。
そして、フランスがやってきて、タイの朝貢国だったベトナム、カンボジア、ラオスを「フランス領インドシナ」として統治しはじめる。「ラオス」という国名は「ラオ族」という意味で、フランスによってはじめて使われた。
統一から首都はこのルアン・プラバンであったが、1560年セッタティラータ王の時(別の資料によると1520年セッタティラータの父フォティサラート王の時、と書かれていたものもある。)、ミャンマーの侵攻がはげしくなり現在のヴィエンチャンへ遷都。
ルアン・プラバンは荒廃していたが、フランス統治下で再び王の在所となる。
1909年(1904年の資料もあり)フランスの支配下で建てられたこの旧王宮は、ヨーロピアンな生活を送っていた当時のランサン王朝の雰囲気が感じられる場所であった。入り口の白大理石の床ははるばるイタリアからのもの。今はここで靴を脱いで入るけれど、かつては洋風に靴のまま生活してたつくりである。
内部の装飾は、たとえば日本からのガラスで造られたモザイクが壁一面をカラフルに彩る大広間だったりするが、基本的にそれほど目を見張らせるものではない。特にヨーロッパの宮殿を見ている目で見ると実にシンプルに見えてしまう。
でも、がっかりすることはない。
ここにはルアン・プラバンの名前の由来になった、どうしても見ておかなければならない歴史的な収蔵物がある。
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カンボジア王家と婚姻関係を持っていた時代に贈られた、高さ83cm重さ53.4�圓痢峅�金の仏像」がそれ。
この町は古くは「ムアン(「町」の意味)・サワー」という名前で呼ばれていたのだが、1512年にこの「黄金の仏像」がもたらされたことにより、「Phabang=黄金の仏」となり、「luang=偉大なる・王家の」という言葉が加えられて、現在の町の名前となったのである。
※1359年初代ファーグム王の時に贈られたとする説もある
しかし、この町にその都市名の由来となった「黄金の仏像」があったのはそれからヴィエンチャンに遷都されるまでの間だけ。
さらに、ヴィエンチャンにタイの軍隊が進入した1828年には、エメラルドの仏と共にバンコクに持ち去られてしまった。
※これも別資料によると1779年と1827年の二度タイに持ち去られたとするものがあった。
では、なぜ今元のルアン・プラバンにあるのか?
「エメラルド仏像」と「黄金の仏像」の二体をラオスから持ち去ったタイでは謎の病が流行りだし、五百人もの死者が出る事態となる。
占いさせてみると「二体の仏のうちどちらかを元に返すべき」と出たことにより、「黄金の仏像」を返す事にしたのである。
1867年タイ国王よりラオスへ返還された「黄金の仏像」は、あるべき場所ルアン・プラバンへ置かれることになった。(この時の細かい移動については詳細不明)
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現在王宮の敷地にはこの「プラバン=黄金の仏」を安置する為の寺院を建設中。開放政策以前から計画されていたものだが、1993年からやっと建設がはじまり未だに完成していない。
「黄金の仏像」はこの写真の建物の右ウィングの一室にある。
格子越しに見る事ができたけれど、あの場所に置かれていては、なんというか…本来持っているはずのオーラも感じられない場所であった。