先週コンシェルジュリ(マリー・アントワネットが最後に幽閉されていた場所)を見学しに入ったのだが、いつもと違う写真展示がずらっと展示されていて、本来の見学に入るまえに見入ってしまった。
それはコンシェルジュリの建物とはあまり関係なく、19世紀にパリで何度も開かれていた万国博覧会の記録写真である。
そういえば、エッフェル塔もグラン・パレも市立美術館も、かつて万博のために建てられたもの。万博はパリの現代の顔を創っていたともいえる。
今は取り壊されてしまった各国パビリオンの写真がある中、「パビリオン・ドゥ・ジャポン(日本館)と説明されたセピア色の写真が目についた。
しかし、よく見てみると、掲げられた紋所は日の丸でも菊の御門でもない。丸に十の字は、そう薩摩・島津藩のものだ。
幕末の混乱期、力を強めていた薩摩は日本館とは別にパビリオンを出したという話は聞いたことがあった。そうか、それがこれか。
調べてみると、この第一回万国博覧会には、日本から他にもうひとつパビリオンが参加していた。佐賀・鍋島藩である。※伊万里焼を特産とする彼らが西欧へのよりいっそうの進出を考えて出店していたのかもしれない。
都合日本から三つのパビリオンが参加した1867年第一回万国博覧会。
今回の展示写真を選んだ人はこの事を把握した上で薩摩館を「日本館」と表記したのだろうか。
万博やオリンピックは必ずその時代の世界の様子を反映している。