どこまでも青い草原の空の下に日本人慰霊堂はあった。
コンクリートのモダンな建物・慰霊碑から六十年以上前の気配を感じることは簡単ではない。
まあたらしいこの建物にあって、唯一にじみ出るような苦悶と慰霊の気持ちを感じさせたのがこの木製の碑だった。
「諸氏よ、祖国日本は見事に復興しました。モンゴルの地に安らかに眠ってください。」
ここに現在の立派な記念碑が出来る以前、昭和41年に立てられたもので「モンゴル会、長谷川」と署名がある。彼自身がこの地に葬られていてもおかしくない人だったのだろう。
当時オリンピックを成功させて急激に発展しはじめていた日本。
大きな心残りを胸に異国に倒れた友人に「もう日本は心配しなくてもよい」と伝えようとする気持ちが、この短い文と手書きの文字からあふれている。
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モンゴルから帰国翌日。
新宿にある平和祈念資料館を訪れた。
ウランバートル郊外、ダンバダルジャーの日本人墓地を訪れた記憶をもうすこしはっきり捉えたかったからである。
六十年前の大戦の後、満州などで捕らえられた日本人は(「兵」だけではなく民間人が町を歩いていて拉致されるケースもあった)ソ連だけでなくモンゴルでも強制労働させられていた。
資料により数の違いはあるが少なくとも1万2千人もの日本人が抑留され、1500人以上が命をおとしている。
ダンバダルジャーの慰霊堂には、モンゴル各地16箇所の日本人の埋葬地から運ばれてきた砂が慰霊室に展示してあった。
しかし、新宿の祈念館の抑留地地図においては、モンゴル領内はウランバートルしか載せられていない。モンゴルは抑留の歴史をさぐる時代になってからも、長く空白にされていた場所なのであろう。
小泉元首相は1997年厚生大臣時代にすでにモンゴルの日本人墓地を訪れていた。さらに首相になった後2006年にも再び訪れている。政治的立場や意見はさておき、こうした訪問は意味のあることである。
我々「戦争を知らない世代」にとって歴史を事実として認識する方法は、とにかく時間をかけて感じる努力をする以外にない。
日本人墓地の慰霊堂にあったひとつひとつの名前、没年の場所や年齢、残された遺書、これらをゆっくり読みすすむ事によって「自分の痛み」として歴史を感じられるようになっていく。
今回のモンゴルの旅が与えてくれた糸口を、もう少し深めていく努力をしてみたい。