上野西洋美術館「コロー展」へ。
セオリーどおり開館時間が延長される日の4時過ぎは空いていてよかった。
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コローは「森の画家」と呼ばれたりする。
コローの描いていてる森はどれだけ魅力的なのか?自分で実際に見て何か特別な感銘をうけるのか?興味があった。
しかし、私の目にコローの森は灰色の綿菓子のように見えて魅力的な造詣にも色にもみえなかった。
それでもコローの描いた絵がただつまらなく見えなかったのはなぜだろう?
それは、そこに必ず人物が描きこまれているからではないだろうか。初期、イタリア留学中に描いたチボリ庭園の絵では、あとからわざわざ少年を描きこんだぐらいである。実際に彼の描いた風景画にはからなず人物が描かれている。
個人的な印象としては、彼が描きたかったのは人物、もしくは人間の内面を通してみる風景のように感じた。だから晩年になって彼が人物そのものを主題にして描き始めた頃の作品がおもしろいのは当然、か。
人物といっても、それは自然な人物ではなく、舞台の上の人物だ。
ルノワールが描いていたピアノを弾く少女たちや孫たちがおもちゃで遊んでいるといった自然な姿とは全然違う。
人物は皆ポーズをとっている。絵描きに向かってポーズをとっているというよりも、舞台の上で演じている雰囲気がする。
実際コローはオペラ大好きだったという解説があって得心した。
「マルセルの柳」という絵では、遠く続く並木道を一組の家族3人が向こうから歩いてくる。風景だけでも魅力のない絵なわけではないが、コロー自身が人物を描くことでより風景を楽しく感じるようになっている。コローもそういった効果を意識している。人間こそが風景を感じる主役である事を知っている。
人間が画面に描きこまれる事によって、すべての風景は主役の座を降りる事になる。
人間が描かれると、それを見る人間はどうしても描きこまれた人物に感情移入するからだ。その人物が感じているだろう空気、風の流れ、日差し、におい、あるいは恐れ、焦燥感、安心感、幸福感、そういったものを感じさせるためにコローは人物を描きこんでいる。
そこがあくまで風景を主体に描いたモネなどとは決定的に違う。
モネの大聖堂の連作には「そこにあるべき人物」さえも描かれていない意味がこれでわかった気がした。モネは意図して人物を描かなかったのだ。
小さくとも人物を描きこむことは、風景画の意味を変えてしまう大きな要素となる。
また、押し殺した色彩も風景を脇役にしている。
ローマのヴィラ・メディチの水盤噴水を描いた絵は、コローの描いたものよりも並んで展示されていたモーリス・ドニの作品の方がより風景そのものが語っていると感じた。
わざわざ逆光を選んで絵を描くところなども色彩を殺して描きたかった意識の現われのように見える。
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★「コローのモナ・リザ」はコローが最晩年の十年間ずっと手元においていた作品である。体の前で組んだ両腕は、はっきりとダ・ビンチの「モナ・リサ」からの引用だ。
真珠と間違われた花の髪飾りも美しい。
ただ今回の展示でこの作品へのライティングは疑問。
正面から見て、近くても遠くても光が反射して見づらかった。