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カローデン、贖罪の記念碑
2008-06-22
午前中、荒れ模様のネス湖を遊覧。
午後マクベスのモデルといわれるコーダー城へ行き、最後にカローデンの古戦場を訪れた。

1746年4月16日午前、スコットランドの独立を掲げたジャコバイト達がイングランド軍と最後の戦いを行ったのがこの草原である。

スコットランド側大将は通称ボニー・プリンス。
イギリス名誉革命で追放されたジェイムズ(ラテン語でジャコブ)二世王の孫である。彼を支持する人々を「ジャコバイト」と呼び、イングランドのジョージ王とは違うスコットランドの王はボニー・プリンス・チャーリーだと主張していたのである。

前年の1745年、亡命先のフランスからスコットランドに上陸したボニーは、ハイランダー達の支持を集め、一時はロンドンに攻め上る勢いを示す。しかし、スコットランドから離れるにしたがい支持も得られず物資補給も困難になり、英国正規軍が前面に出てくると北へ敗走する事態となる。

敗走の後、最後にたどりついたのが、ハイランドの首都インヴァネス近くの、ここカローデン。

敗走を重ねてきたジャコバイト達は士気も衰えており、戦闘は一時間も続かなかった。イングランド軍の圧勝に終わる。
ジャコバイトたちはその支持者たち共々残忍な虐殺に遭う。女子供も容赦されなかったという。これをもってスコットランドの独立を求める戦いは終わりとなった。

**
そこまでの話はいろいろな本で読むことが出来る。
同行してくれたローカル・ガイドのシリアさんは、この戦いを記念するこのモニュメントについて面白い話をきかせてくれた。

「このモニュメントスコットランド貴族FORBES家が戦後六十年経ってからここに築いたものなのよ。きっと贖罪の気持ちもあったんでしょうね。」

ジャコバイト軍が北へ逃れてきたとき、このフォーブス家は同じスコットランド貴族として歓待した。
しかし、会戦前、イングランド軍が現地に到着すると、敵側の将校も招待して歓待の宴を催していた。同じスコットランド貴族でもローランダー達はイングランドから利権を得て実利に生きている者も多かったのである。

つまり、どちらが勝っても良いようにうまく立ち回り、実際の戦闘からは身を引いていたのがフォーブス家だった。実際その根回しの結果、彼らは戦後生き残ることのできたスコットランド貴族となり、この地方のウィスキー醸造の免税特権をえて財を成すことになる。

生き残るためであったとはいえ、同じスコットランド人の仲間を裏切るような事をしたことは、後々まで後味が悪かっただろう。

ジャコバイト達の遺体を集めた塚があった場所に建てられた無骨な記念碑は、雨の中なんだか骸骨の山の様に見えてくる。確かにこれは贖罪の記念碑なのかもしれない。

こういう事はガイドブックには書かれない「事実」である。



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