《手造》トルコ黒海沿岸+の第二回の出発。
**
成田よりイスタンブールへ到着・泊の日だったが、先走ってトラブゾンの話をひとつ。今回は城壁で囲まれたトラブゾン旧市街の中へ入った。
***
そのモスクの入り口を入ると、左右の柱がすぐ目に留まった。大理石の一本柱が二本、柱頭はまごうことなきイオニア式。一目でわかる古代ギリシャ神殿のものだ。
これは他の場所から持ってこられたものではなく、ここに古代から立ち続けているものだろう。トラブゾン旧市街には古代からギリシャ人が殖民し、ここにはギリシャの神殿があったのである。
4世紀、ローマ帝国がキリスト教化されてここには教会が建設された。施主はコンスタンチヌス大帝のいとこ(黒海地方で出されている英語ガイドではいとこ、トルコ政府観光局HPでは甥となっている)Hanbibalianosとされている。
別の解説でははじめの教会は10世紀のものとされている。果たしてどちらが正しいのだろう?分からない。
とにかくも11世紀の時点では旧ギリシャ神殿の石材を利用した教会が存在し、フレスコで描かれた聖母マリアの光背が金色に装飾されていたので「Gold Head」と通称されていたのだそうだ。※この記述の根拠がどの記録にあるのか、どこにも出典は紹介されていなかった。
13世紀、第4回十字軍の結果コンスタンチノープルから逃れてきた皇族がここにトラブゾン帝国を建国。大規模な改築を行った。現在見られる十字型の基本構造はこの時以来と思われる。
****
モスク入り口のイオニア式柱を入り内部を見回すと、白い壁の一角が大きくはがれているのが目に付いた。色大理石で描かれた模様はシチリアや南イタリアでよく見られるコズマーティ様式に似ている。
同じくトラブゾンのアヤソフィアに残された床の文様もまたこのスタイルだった。同時期13世紀の装飾である。トラブゾン帝国の皇帝は、戴冠式を行なうこの教会をこんなふうに美しく大理石で飾っていたわけだ。
1453年にコンスタンチノープルを陥落させたスルタン、メフメット二世は、1461年にトラブゾン帝国をも征服する。スルタンがトラブゾン征服後初めての金曜日に礼拝を行ったのがここだったと入り口の案内板に書かれている。教会だったこの建物はさらにモスクとなったのだ。
実はモスクに転用される前、教会としての正面入り口は西側にあった。東=エルサレムの方向に祭壇があったわけだ。しかし、モスクになると正面はメッカの方向=どちらかというと南となる。入り口は西側から現在の北側に移動させられ、正面祭壇も移動したという事だ。
東奥、現在図書室になってる部屋の入り口にはアラビア文字で主祭壇の方向転換について刻まれた文字が見られる。
****
二千年以上の間、この二本の柱はここで人々の往来を見続けてきたのだろう。
白い衣装のギリシャ神官達、鎧を着たローマの武人、ビザンチンの華麗なパリウムを肩にかけた司祭、そしてその時代時代を生きたさまざまな民族の市井の人々。数知れない人々を見下ろしてきたこの二本の柱の間を、我々も今通っている。