上野の薬師寺展へ。
開館時間の延長をしている金曜日の夕方からが狙い目。予想通り混雑は回避。人垣の後ろから背伸びする必要などなく、しっかり対峙することが出来た。
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角を曲がり「お!」と意表を突かる。
今回の薬師寺展で話題の日光、月光、の両菩薩像は、思っていたよりもずっと巨大だ。3メートル15センチという大きさはまさに見上げる立像である。
テレビでも特集番組が組まれ、私もその番組を見ていたのだが、実際に対峙してみてはじめて分かるその迫力・気品。予想をはるかに超えた存在感がある。
加えて鋳造の見事さ、手触り感(さわってないけれど)。古代ギリシャのブロンズ像から感じるものとはだいぶ違うが、様式美と一刀両断に出来ない人体を描写した生な雰囲気がある。
光背を取り除いた仏像だけの姿で後姿も拝めるというのも話題である。テレビ番組では「月光像の腰が女性的であるのがよく分かる」と言っていたが、…んん、なるほどそうかもしれないけれど、だから日光像が男性的と断定できるほどの差はない。
日光と月光という対照仏像。古の匠達は、両者にどのような違いを持たせようとしたのだろう。あるいは、どのような類似を維持させようとしたのだろう。それを読み取ろうと交互に見つめ続ける。まわりをぐるぐる回る。
日光の顔は月光に比べると確かに鋭角的ではある。体にかけられた花飾り、月光像のほうは体からわずかに離された場所がいくつも見られ、それが肉体の豊かさを強調する役割をしているのではないか。確かに両者には意図的な差異がある。
しかし、その差は「男女差」というほどのものではない。
日本の仏像はインドやチベットの神像とは違い、性差というものを消す努力をしているように見える。つまり、男と思えば男に見え、女と思えば女と見える、微妙な造型になっている。
人体のリアルさを維持しながら、性的な要素は薄めていく。
あんまりストレートなのは「ありがたくない」というのは日本的センスなのかもしれませぬ。
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最初に見たときに微笑んでいた。
日光・月光ではなく、東院のご本尊。
この写真の聖観音立像である。
時代は全然違うけれど、ギリシャのアルカイックスマイルのようである。近づいていってもその微笑みは変らない。
制作年代は、日光・月光よりも少し古いと推定される。
腰をひねる日光・月光とは違い直立して静的であるのは時代の違いと説明してあったが、それよりも、これは本尊で中心にあったからだろう。一回目はここまで考えて、日光・月光の方へ移動してしまっていた。
18時過ぎ、会場はより空いてきた。二回目に前に立った時、少しはなれた場所から正面が見えた。腕から垂らされた天衣の作り出す全体のラインが、この像の全体にとても重要な役割を果たしている事がはっきり分かった。
足の両サイドをゆるく丸く囲う天衣の描くこの曲線。
ミュシャの描くアール・ヌーボーの絵に出てきそうだ。
この曲線の存在を知ってから、再び日光・月光を見る。
すると、両菩薩像はこの天衣が無残に破壊されてしまっている跡が見えてきた。一回目、巨大さに目を奪われていた時には分からなかった弱点だ。
台座にはちぎれた天衣の端が残っているし、衣の途中にも何かが引き剥がされた痕跡がある。天衣が破壊されていなければ、日光・月光も聖観音菩薩立像のような優雅な輪郭をもっていたのだろうか。
この迫力に加えて優雅さももっとあったのだろうか。
再び聖観音菩薩立像の元へ戻る。
この像はほぼ等身大。巨像=日光・月光菩薩像の持つ迫力や威圧感はまったくない。しかし、アルカイック風の微笑みを香らせながら、正面からこちらへ対峙してくる姿はより美しい。
会場を出て聖観音立像の足元の天衣の曲線が分かるハガキを探した。多くのものは光背と共に写されていてシルエットがぼやけている。光背は確かにありがたさを増すけれど、像自体の美しさを感じるには像だけの姿のものが良い。
今度は薬師寺に戻られた時にぜひ対峙してみたい。