マウリッツハイス美術館というと、フェルメールやレンブラントを目当てに行く。
いつものようにこれらの作品を見た後、下の階で開催されていたAdriaen Coorte(エイドリアン・クールトと発音してよいのだろうか)の展示を見に降りた。
先月も来たマウリッツハイスだったが、その時は時間もなかったので行かなかった。今日は少し時間が出来たので「ま、やってるんなら見ておこうか」という程度の気持ちだった。
それだけ静物画というものに感動した事がなかったのである。人物を描いた絵の方がよほど人の心に迫ってくる、と思っていた。要するに静物画を軽く見ていた私だった。
しかし、クールトの絵を一見して、その不遜な考えは吹き飛ばされた。すぐに思い出したのはカラバッジョが描いた「果物籠」。
クールトの描き出す木苺やアスパラガスは、カラバッジョの描いたような闇からのライトに照らされている。また、それらが存在しているのは木や石のテーブルのいちばん端っこ。そう、この「端」というのも独特の雰囲気を作り出している大きな要素である。
その物たちは独特の光の中で、あたかも何者かを演じている役者の様である。あるいは、レンブラントの描く濃い飴色の光の中にある旧約聖書の人物の様でもある。
何が語られていると感じるかは、見る人それぞれが感じれば良い。とにかくも、静物が語りだそうとしているこんな絵はこれまで見たことがなかった。
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ゆっくり見ている時間はたいしてなかったが、その15分ほどの間に静物画というものに対する認識はすっかり変わってしまった。
クールトは1683年から1707年までは活躍した事が記録され、その後忽然と消えてしまった、静物画ばかりを描いた画職人である。その後全く忘れさられてしまっていたが、20世紀に入ってから再発見されていった。現在世界中で彼の作品とされているのは六十点ほど。これからもっと多くのクールト作品が再発見されていく事だろう。
図録を読んでいくうちに、再発見と評価が、「クールトを本当に好きな人々」によってゆっくりと行われていったことが分かる。多くのコレクターやディレクター、キュレーターの尽力によって、やっと開催された展覧会である事を知った。
マウリッツハイスのこの展覧会は6月までだそうだ。ほんとうに残念ながら私はもう訪れる事ができない。もっと早く知っていれば、と悔やまれる。
クールトも、フェルメールのように人々が世界中から見に来る画家となるかもしれない。たとえそうならなくとも、次回どこかで開催されるだろう展覧会には、労を惜しまずに見に行こうと思う。