きのうの続き
三、歌舞伎十八番の内
助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)
河東節十寸見会御連中
いわゆる「助六」は江戸の粋な町人と思っていた。
実際そうなのだが、話の終わりの方で、助六の本名が曽我五郎時到だと分かり、不思議に思った。
曽我五郎というのは、仇討ちで有名な曽我兄弟の弟の方である。これはしばらく前に見た「御所の五郎蔵」を調べていて理解した。
しかし、曽我兄弟の仇討ちというのは歴史上では1193年に起こったとされている。つまり鎌倉幕府開闢の一年後である。明らかに江戸の花街が舞台になっている「助六」とは時代があわない。
これはいったい?
と思うけれど、実は他にも時代設定など完全に無視した登場人物や役造りはたくさんある。「それが歌舞伎なのだ」と言えるかもしれない。
だいたい歌舞伎の話に歴史的な正確さなどもとめて来る観客ではない。観客はひたすら楽しませてくれる舞台を望んでいた。
曽我兄弟の仇討ちが有名ならば、それにあわせて枝葉のおもしろいストーリーを考えて造ってしまっても全然かまわないのだ。
ちなみに「助六」が初演されたのは1713年。赤穂浪士の討ち入りが1702年だからその約十年後。まだ記憶に新しかっただろう。
ちなみに「忠臣蔵」が初演されたのは討ち入りの後四十年程してから。政治的にもビミョウな事件だったから、すぐに歌舞伎のネタには出来なかったのだろう。
だから、討ち入りがあった当時の庶民にとって誰でも知っている「仇討ち」劇は、曽我兄弟のものだったにちがいない。
庶民に人気があった「曽我モノ」にこたえるべく、話はどんどん増殖してゆき、曽我兄弟など全く出てこないストーリーもたくさんつくられたというのが事実であるらしい。
これからも歌舞伎にいけば、たくせん「曽我モノ」に出会うであろう。ちゃんと調べておかなくちゃね。