シュトットガルトを出てラインを越えてフランス領へ。
午後はロレーヌ地方の首都ナンシーを歩く。
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ナンシーの中心は世界遺産にも指定されている「スタニスラス広場」だ。広場の中心に立っているこの人である。
彼は現在ウクライナ西部となっている小さな町でうまれた。当時はポーランド領土だった小さな町である。ポズナニ公の息子であるから高位の貴族であるが王家ではなかった。
ポーランドは17世紀末から18世紀初頭、北方戦争と呼ばれるスエーデンとロシアとの間で翻弄された国である。
彼の人生もその中で翻弄されている。
スエーデン王によってポーランドの王に擁立されたものの、その後巻き返したロシアのピョートル大帝によって放逐され、32歳でフランスに亡命した。
彼を温かく迎えたのは絶頂期の太陽王ルイ14世である。ルイの思惑は、いつかポーランドを手に入れるための駒としてスタニスラスを遇しておこうというものだったろう。
亡命したポーランド王にはすでに六才になる娘がいた。
彼女が後にルイ15世の姉さん女房となる。
24年の後、ルイ14世はすでに没していたが、ついにポーランドを取り戻す機会が訪れる。スエーデンによって立てられていたポーランド王アウグスト2が没したのである。
ポーランド王位を主張したスタニスラフは一世一代の戦いに打って出る。故郷を我が手に!
しかし、軍隊はフランスからの借り物・・・。ドイツ贔屓のロシアの女帝アンナによってザクセン選帝侯が推挙され、スタニスラスは今度こそ行き場を失ってしまった。
強大なフランス王15世は、この不運な舅殿の落ち着く先をうまくみつけてくれた。
もともとこのロレーヌ地方はドイツ系のロートリンゲン公爵が治めていた。しかし、跡継ぎのフランツ・フォン・ロートリンゲンはかのハプスブルグの女帝マリア・テレジアに望まれてウイーンに「お婿」に行く事になっていたのである。
フランスは女性の王位継承を認めないサリック法の国である。
ハプスブルグもマリア・テレジアの父カール六世が法を改正してはじめて娘マリアの相続が実現した。
ルイ15世はこの結婚を認めるかわりに、国境にあたるロートリンゲン公爵領をハプスブルグから切り離し、舅殿を一代限りのロレーヌ公とすることを認めさせた。間接的にフランス領にしたわけだ。
亡命してきた「元ポーランド王」スタニスラスが割り振られたのはそんな「ロレーヌ公国」だったのである。
60歳を過ぎて一世一代の戦争に敗れ、ポーランドへ帰る野心も失ったスタニスラス公はこの地で余生を楽しくすごしたらしい。
婿殿を称える凱旋門なども建設している。
町を美しく整備し美食に美女に音楽にと楽しい毎日。この彫刻もそんなメタボな雰囲気に満ちております(笑)。しかし、いつも側に侍医をおいていたのが良かったのか89歳という当時としては超のつく長寿を全うした。
ロレーヌ公としてはただ一代限り。没後ロレーヌは約束どおりフランス領となった。
他に縁者のひとりも眠っていない、歴代ロートリンゲン公の菩提寺には葬られたくはなかったのだろう。別の教会・ノートル・ダーム・ド・ボンセクールに婦人と共に埋葬されている。
※婦人はカタージナ・オパリンスカ。16歳の時王になる前の21歳のスタニスラスと結婚し、ロレーヌ公妃として死去するまで49年間波乱の夫婦生活を共にした。