歌舞伎座の顔見世に行く機会を得た。
今まで外国のオペラやミュージカルは見ていても、恥ずかしながら日本の歌舞伎をみたことがなかった。
自国の伝統芸能を知らずに外国のものを語る、というのは自分でもどこかいびつな気がする。だから、たとえ実際には大して面白くないとしても、どうしても「見ておかなくてはならない」と思っていたのである。
見た結果どうだったか?
たぁいへん!面白い!また行きたい。
日本文化の根っこがちゃんとしっかり生きている事を実感させてくれる。毎日昼夜こんな濃い芝居をやって、決して安くない席にもかかわらず、ちゃんとお客さんが入っている。それは理屈抜きに面白いからである。歴史や文化などと面倒くさい事を知らなくても、現代の我々の目から見て充分面白いお話。だからお金を払う人がたくさんいる。日本独自の文化に日本人が喜んでお金を払ううちは、衰退など心配しなくてよい。大丈夫。
演目は、
一、種蒔三番捜(たねまきさんばそう)
二、傾城反魂香(けいせいはんごんこう)
三、素襖落(すおうおとし)
四、曽我綉俠御所染(そがもようたてしのごしょぞめ)
この表題だけ見て、その内容が分かる人はかなり好きな人に違いない。私は漢字を正確に読むことさえ難しかった。こういう漢字文化を日本人が読めなくなるのを危惧している。読めなくなる人がこれから増えるかと心配はするが、案外大丈夫だと思う。
こういう漢字を読みこなせる事は、実はとってもカッコイイと思える。きっと「若者」と呼ばれる人々もそう思うだろう。だからこういった漢字文化もそうそう廃れる事はないだろう。楽観的すぎるだろうか?
演目を見ていてはっきり分かった事がある。
それはルーツを「能」に持つ歌舞伎がけっこうあるという事実。今回は一番目が能、三番目が狂言の古い話をもとにつくられた歌舞伎であった。
「能」はもちろん歌舞伎よりも古いルーツを持つ日本の芸能である。歌舞伎という様式が発展していった時代、能はすでに全盛期を過ぎ、長年停滞していたと思われる。
※「停滞していた」の定義は何か?と問われそうだけれど、私の中では新作が作られなくなった芸能は「停滞している」のだと考える。
しかし、「能」の中にはかなり普遍的な要素があり、実際面白くもあるので、歌舞伎の作者達はそのエッセンスをとりいれた演目を造っていったのだろう。温故知新。
「能ベース」の作品は舞台背景がシンプルで、巨大な松の絵が描かれているものが多い。これによりこういった演目は「松羽目」と呼ばれるのだそうである。
二番目、四番目の演目が舞台装置も大掛かりで衣装も派手なのと比べると、これは大きな違いだ。ひとくちに歌舞伎といっても、その実、いろいろな種類があるのである。