ステレオファンの方、「デンオン」ではありませーん。「ドゥノン」と発音してください。ルーブル美術館初代館長ヴィヴァン・ドゥノン(「ドノン」でも可)の墓でありまーす。
**
10月23日にパリ最大の墓地ペール・ラシューズへ行った時、ショパンの墓の前で偶然に彼の墓を見つけたのである。墓地となりの花屋で買った有名人の墓一覧表にもドゥノンの名は載っていなかった。ルーブル美術館初代館長といっても、この墓地ではたいした肩書きではない、という事か。
ドゥノンは新ルーブル美術館に三つある翼のひとつにその名前を付けられている。シュリー、リシリュー、そしてドゥノン翼である。ガラスのピラミッド下からドゥノン翼の方向へ入ると、「モナ・リサ」をはじめとするイタリア絵画や、ダヴィッドの「ナポレオンの戴冠」などのある場所へ向かう事になる。いわばルーブル美術館のハイライトにあたる場所だ。
**
ヴィヴァン・ドゥノンについて、はじめ私はエジプト学者として認識していた。しかし、彼の生涯を追っていくとエジプトに出会ったのは、人生の後半になってからだったことに気がついた。
以下、少し調べてみて見えてきた彼の生涯の概略。
***
1847年地方貴族子として生まれる。
18歳でパリに出てきて法律の勉強を始めるが、途中から絵画や版画を学ぶように転向。
時はブルボン王朝。彼の始めての仕事はルイ15世愛妾だったポンパドール婦人の残した宝飾品を管理する仕事であった。
25歳の時、外交官として外国へ派遣される事になる。サンクト・ペテルスブルグ、ストックホルム、ジュネーヴ、どこへ行っても絵は描いていたらしい。そして35歳の時に派遣されたナポリ=イタリアが彼におおきな影響を与えた。
ポンペイの遺跡はすでに発掘が始められていた。リアルな出土品に古代ローマへの憧憬が高まっていく時代でもあった。彼の生涯にわたるコレクションはこの時代に本格化していった。
38歳の時、ナポリで外交官としての職務を終えると、帰国せずにそのままローマへ赴く。絵や版画を描く仕事を得てそのままイタリアに三年留まった。当時文化的な仕事を志すにはイタリア行きが必須の時代であった。
三年の滞在の後、パリに帰った彼は「シチリアへの旅」という銅版画集を発表する。はじめての大作だっただろう。同じ年ヴェネチアの貴族への絵画講師として再びイタリアへ向かう。
そして翌1789年フランス革命が勃発。運よくフランス国外に居て助かったわけだ。多くのフランス貴族階級が蒙った惨禍を逃れる事が出来たのだ。そのまま故国には帰れない三年が経つ。
彼が無事故国へ戻る事ができたのは、ひとつ年下の画家ダヴィッドのおかげだった。ダヴィッドは国民議会にも席を得ていて画家というだけでない社会的地位があった。亡命状態であったドゥノンの罪を問わない保障をしてくれたのである。
※ダヴィッドは後年「ナポレオンの戴冠」を描く事になる画家である。彼がこの大作を描いていく経緯については下記をお読み下さい。
http://www.nta.co.jp/ryoko/tourcon/2004/041202/ドゥノン帰国の翌年、ルイ16世が断頭台に送られる。まだまだフランス革命動乱の時代は続く時代だが、この年にドゥノンはポンペイのエロチックな風俗画の版画集を刊行している。世の中どんな時代でも悲劇だけで動いているわけではないのですな。
****
革命の混乱から一人の英雄が頭角を現してくる。
ナポレオン1世はイタリア遠征の次にはエジプトへの遠征を企てる。
ドゥノンにとっておおきな転機はこの遠征に同行した事である。
歴史上はじめて組織的な学術調査団がエジプトにはいることになったこの遠征で、ドゥノンはたくさんのスケッチを描いた。風景・風俗から遺跡の全景・細部に到るまで。
写真の無い時代これらの紀行文・図版が刊行される事により「エジプトにいったい何があるのか」という真実がヨーロッパに知らされる。プロの絵描きがエジプトを描く事などそれまでは皆無だったのである。
ヨーロッパ全土にエジプトブームが巻き起こり、それによってドゥノンの名前も大きく知られるようになった。
ナポレオンに捧げた「エジプト紀行」が刊行されると、この本はエジプト遠征の具体的なイメージを担っていく事になる。「エジプト紀行」は実際かなり脚色もある本ではあったのだが、ともかくも二百年後の現在でも手に入るロングセラーになっているのだから。
ナポレオンのエジプト遠征は軍事的に失敗に終わったけれど、この文化的功績は現代まで遜色無いエジプト学の誕生なのである。
ナポレオンはヨーロッパ各国へ遠征。
そこでの戦利品をパリに集めてくる。ルーブルはナポレオン博物館と名前を変え、これら戦利美術品を収蔵する場所になる。ブルボン王朝時代からのコレクションと共に、これら膨大なコレクションの初代の管理者に、ドゥノンが任命されたのである。
イタリアの教会や修道院からもたくさんの品々がルーブルに送られてくる。ナポレオンの妹を嫁がせたボルゲーゼ家からも大量の貴重なコレクションがルーブルに加わる事になる。ルーブルはイタリア国外で始めて、イタリアの美術を系統的に集めた場所になった。
だが時は移りゆく。
ナポレオンが失脚し、多くの略奪美術品を返還すべき時がやってきた。しかし、ドゥノンはそれを拒否する。かわりに辞任・引退する道を選んだのである。
その後は彼自身のコレクションを充実させ、それを甥に継がせて世を去った。ナポレオンの失脚後十年目であった。
******
ドゥノンは画家として一流ではなかった。彼の絵がルーブルに展示されているのは見たことがない。文章家として一流だったのか?それも疑問である。「エジプト紀行」は紀行文として魅力的だが、文学的価値と呼べるほどの普遍性は無いように見える。
それではいったい何がヴィヴァン・ドノンの価値だったのだろうか。それは時代や世界を選ばないまっとうなバランス感覚と、その自分に正直な気持ちを、ナポレオンに捧げた本の中にもしっかり書き残しておけた「勇気」なのかもしれない。
たとえば「エジプト紀行」の中の下記のような記述である。
※マムルークとは当時エジプトの民衆を支配してた外国人の軍人集団。
『確かに我々はマムルーク達を追い払った。しかしそれは、彼らと交代しただけのことではなかっただろうか。そう自問せざるを得なくなる。
なぜなら、マムルークたちよりも公正だと自負していた我々が、実際には毎日不正な行為をしでかしているからだ。住民の幸福の為に、という思いでエジプトまでやってきたのがだ、その住民の行く末は、以前より良くなるどころではなかった。
我々が近づくと住民は恐怖におののき逃げ惑う。われわれが居なくなってから彼らは戻ってくるが、そこには荒廃した家があるだけ・・・』※「ヴィヴァン・ドノン『ボナパルト将軍エジプト紀行』の200年」杉本淑彦氏訳より
なんだかイラクに侵攻したアメリカ軍の従軍記者が同じ事を書いていそうな気がする。マムルークをフセイン、エジプトをイラクと読みかえると、そのまま通用する。