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ランス、殉教の町
2007-10-26
午前中ランスの町で自由行動。
12:45発のTGVにてパリへ向かう。たった45分でパリ東駅へ到着。ゆっくり休憩して夜はリンゴをテーマにしたちょっとおもしろいレストランにて夕食。
**

大聖堂の周囲を一周する。黒く焼け焦げた雰囲気が未だに感じられる。百年近く前でもそれを遠い過去には感じさせない決意がそこにそびえているかのようである。

大聖堂は石の建物だから燃えたりしないのでは?

そう思う人も多いようだが、実際は木材の梁もたくさん使われているので焼けるものはあるのだ。それに、石といえども猛火にあぶられるとぼろぼろに砕けていくのである。それは取り替えられていない石の表面を見ればすぐに理解できる。

第一次大戦時の写真を見れば大聖堂が骨組みと壁・塔だけを残して崩落してしまっているのが分かる。ランスの町は膠着した戦線からドイツ軍の大砲が届く距離にあった。わずか6キロ先からの砲弾が大聖堂を直撃していった。

第一次大戦中、ランスは建物の98%を失った。全市で建っていられた建物は70しかなかったという状態である。市民もまた半数が町を離れ、残りの半数がローマ時代から掘られた地下の穴に逃れていた。クレイェールと呼ばれるこの地下世界は総延長450キロともいわれる。ランスの町がそっくりそこへ疎開し、行政機能だけでなく、映画館や劇場までそこに移動していた。

そんな中でも地上の畑ではシャンパン作りが続けられていた。砲撃をかいくぐり、木を世話し収穫し、新酒を造った。実際に収穫する時に爆撃されたり狙撃されたりして死んだ従業員も多数いた。1914年のシャンパンは血で購われた酒であった。



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