朝起きてみると湖対岸の山が朝日に美しく輝いていた。
「もう天気は大丈夫!」と思ってバスに乗りクイーンズタウンを出発。
クイーンズタウンとミルフォードサウンドはそれほど遠くはないが、一年の降水量は全然違う。ミルフォードサウンドは年間7000mm東京の倍の量の雨が降る。
そう分かってはいても、人間は今自分が身を置いているのと全く違う事を実感するのは難しい。バスの中のメンバーは皆楽観的であった。
二時間後のトイレストップ。まだ大丈夫。再び二時間走行。その後国立公園のゲートそしていよいよ峠にさしかかる頃になると、案の定空があやしく曇ってきた。
国立公園の入り口ゲートで車を一台ずつ止めている。どうやらチェーンを積んでいない車をチェックしている様子。雨模様にはなっているが、チェーンが必要になるほどの雪になるとは思えないが、個人の車でチェーンを持っていないらしい車は目の前でUターンさせられていた。ううん、先はそんなにすごい天候なのか・・・。
曲がりくねった山道をすすむ。いくつかカーブをすすむと再び車がストップ。まだ雪は降り始めていないが、たくさんの車が止まってチェーンをつけはじめている。しかし、我々のバスを運転していたおそらく何千回かはこの道を運転しただろう古参の運転手は「いまだかつてここでチェーンをつけたことはない」と国立公園の係官に言い放つとバスをスタートさせた。
道はどんどん高度を上げてくる。標高900メートルの峠をめざす。雨はだんだんとみぞれにかわり、やがてワイパーをひっきりなしに動かしてもフロントグラスに雪がくっつくようになってくる。国立公園入り口の係官がチェーンなしの車を帰らせた意図が理解できる天気になってきた。
モンキークリークと呼ばれる場所までいくと、最終的チェーン装着が義務となった。古参運転手もバスにもぐってチェーンの装着をはじめる。これから行く手の谷あいは雪空で灰色に曇っている。これからあそこへ上がっていくと思うと肩が寒く感じられる。
雪はまだまだ降り続いてくる。すでにぬかるんできた地面にビニールシートを敷いてごつい体格の運転手達がチェーンをつけている。某日本からグループを乗せていたバスでクライストチャーチから運転してきたものがあった。クライストチャーチはここよりずっと温暖である。ほとんどこのような気候になることはない。運転手も雪の山道を運転してきた経験はないということ。
「わるいけど、ここから先は運転できない。引き返させてもらうよ。」
その運転手は日本からの添乗員さんにそう告げると、本当にその場から引き返してしまった。
先へ進むバスもある中で、あえてひき返す決断をする運転手はたいしたものだが、実際乗車していた日本人グループの中からはきっと不満の声があがったのではないだろうか。なんせ半分以上のバスは先へ進んだのだから。
チェーンをつけたバスは、とたんにゆっくりのスピードになりさらに峠への道をのぼっていく。氷河も見える峠の道でいよいよ雪ははげしくなる。空は灰色の暗い雪空。とうとう本格的な雪道になった時、前方に山から落ちてきた雪が盛り上がっている場所が見えた。
そうか、ここが雪崩の場所なのだ。今通っている道は雪崩の後、除雪して迂回路を確保したものなのだ。こういう雪崩の起きる場所はたくさんあるわけではないが、一箇所でも道がふさがれてしまうとミルフォードサウンドは孤立してしまう。どうしようもないのだ。
雪崩の雪の壁を抜け峠の頂上に近づくと、晴れた日には青く美しくも見えた氷河が今日は不気味に黒く迫っていた。
正面には岩山をくりぬいた峠のトンネル。ここを抜ければミルフォードまでは下るだけである。
岩を掘りぬいただけのトンネルは下り坂の一直線。数年前までは中にはライトがつけられていなかったので、ヘッドライトがないと本当にまっくらだったのだそうだ。このあたりはまだまだそういう辺鄙な場所である。
トンネルを抜けても劇的に天気が変わることはなかった。 ミルフォード・サウンドクルーズの発着ターミナルに着いたのはクルーズ船出発の13時10分前。
幸いこんな天候でも船は出る事になった。
風の通り道である入り江は波たっている。「司教の冠の山」も山頂がかすんでいる。
15分遅れで船は出港した。こんな天候の日には揺れがすごいだろうと覚悟していたが、実際に乗り始めてみると細長い入り江のフィヨルドのおかげか、思うほど揺れはしなかった。
クイーンズタウンの日本食屋がつくってくれた弁当は、正直に言ってひどかった。もともとぽろぽろのご飯が今日は冷え切って箸からこぼれていく。揚げ物のころもは湿気ている。くいしんぼの私もさすがに残して蓋をしてしまった。
フィヨルドは我々の感覚からするととても海という感じではない。外海から深く切れ込んでいるせいか風の強さにくらべてはゆれが少なく感じる。左右は切り立った崖になっている。
晴れた日なら存在しない滝が、今日は何十もの数え切れない白い線になって落ちている。その細い水の流れが吹き上げてくる風で空中に消えてしまう様は、迫力のある美しい景色であった。
雨がやんだのでデッキに出る。
と、とたんにびゅんと強烈な風がふきつけてきた。気温も4度よりもっと低く感じる。冬用のコートの裾を強烈な風がなびかせ、耳つきの帽子をしっかり押さえながら、カメラのシャッターを切る。
聳え立つ崖を見上げる。窓越しには見えなかったたくさんの小さな滝が無数の白い線になって岩肌を流れ落ちてくる。こんな光景は雨の日でなくては見ることが出来ない。
NZ政府観光局が「ミルフォードサウンドには雨の日にいきましょう」という広告を出した事があったのだそうだが、今日の風景を見ればなるほどそれもうなずける。晴れた日のフィヨルドとは全然違った意味で一見に値する光景だ。
いつもある滝はよりいっそう水量を増している。船がそこへ近づいていくと、尋常ではない水がバケツの水をぶっかけるよう降りかかってくる。歓声と悲鳴をあげながら船内に逃げ込む。
晴れた日のクルーズならばタスマン海が見えるところまで行くのだが、今日はさすがにそこまでは行かず15時過ぎには港へ戻りバスに乗車した。
帰路もまた同じ峠を戻ることになる。もしもここで峠がしまってしまったら、我々はクイーンズタウンへはもどれない。ガイドのK子さんは実際に突然サイレンが鳴ってそういう状況に陥った事あるそうだが、今日は幸い来た時よりも天候は回復した。