早朝06:25ドブロブニク発の飛行機でザグレブへ移動。
※朝は3時半起床!パッケージツアーの宿命でしょうか・・・《手造》ツアーでは絶対ありえません!来年あたりクロアチアを《手造》したいと思っております。
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日本の10分の一しかない小さな国土のクロアチアは、「く」の字型のおもしろい国土をしている。その一番南端のドブロブニクから内陸の首都ザグレブに飛んできた。ザグレブのような完全に内陸的町とドブロブニクが、こんな小国の中に存在するという歴史の不思議。
熱波のドブロブニクは35度を越えていたが、ザグレブは25度。ちょうどよい場所に脱出してきた気分である(笑)。
ザグレブはドナウの支流になるサヴァ川が流れている。旧市街のはるか南になるが、現在はこの川も越えて町が拡大していっている。100万になろうという人口には、1995年まで続いた戦争出の避難民も多く含まれている。
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旧市街は山の麓にある二つの低い丘、グラデッツとカピトルである。新市街と呼ばれるものはその下にあるこの広場から始まっている。今のザグレブの銀座といった場所になる。
ここはユーゴ時代には共和国広場と呼ばれていた。
※手配会社のくれた日本語の地図には今でもそう書かれていた。やれやれ。
現在は、イェラチッチ広場。
この広場に建つ銅像がその人である。
この人物、私がクロアチアという国に対して持つイメージ人物である。※どの国を見るときにも、誰か特定の人物に思い切りフォーカスしてみると見えてくるものがある。
ヨシプ・イェラチッチの事をここで精しく触れる余裕はないが、簡単に言えば19世紀半ばの民族主義者である。旧ユーゴ時代には彼の事を歌っただけで警察に連行されるような人であった。
第一次大戦後のセルボ・クロアート王国時代に建てられたこの像だが、第二次大戦後には撤去されてばらばらにされていた。(それでもそれを廃棄せずに残していたクロアチア人はすごい。きっと再び建てられる日が来ると信じていたのだろう)
ここに彼が帰ってきたのは1991年のほんとうのクロアチア人の国が独立してからである。
しかし、この銅像は元と全く同じに建てられたわけではない。
向きが180度逆になっている。なぜか?。
※と、ザグレブの英語ガイドさんの言ったことを鵜呑みにしてかいたが、今調べているうちに、昔の写真にみえるものを発見した。そこには現在とは90度違った角度で建っている像が写っている。むむむ、これはいつのものなのだろう?事実はどのように変化していったのだろう?今度行ったら調べてみたい。
以前彼の剣は、意図的にかつて彼らを押さえ込んできたハンガリーの方向を向いていたのである。実際ウィーン政府の意図を受けて彼はブダペストまで進軍した。それが歴史における彼の生涯のハイライトであった。
しかし、今やそんな事を銅像に語らせる時代ではなくなった。それよりも、海岸部のクロアチア都市との融合こそが今のクロアチアにとって必要だという事。像の進む方向は180度変えられ、陸と海、両方のクロアチアを融合する為に進んでいる。