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中島三郎助と勝海舟
2007-07-06
先日浦賀の町を歩いていて目に留めた「中島三郎助の墓」について調べてみた。黒船来航当時の浦賀副奉行だった人物とあった。
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中島三郎助は黒船来航当時32歳。16歳の与力見習いの時にモリソン号事件遭遇、25歳の時にはアメリカ東インド艦隊司令長官ビッドルとの交渉役をした実績があった。それゆえ黒船来航当時の実質的現場担当者のひとりとなった。
※モリソン号はアメリカの非武装商船で、日本の遭難漁民7人を帰国させ、かつ商取引をする目的でやってきた。浦賀や薩摩で交渉したが結局日本側は砲撃して追い払った事件である。現場でこの事件を見聞きしただろう16歳の中島にアメリカという存在を印象付けたことだろう。
黒船来航の二年後、幕府が創設した長崎海軍伝習所の一期生として入所。
中島は三年後に築地軍艦操練所教授方を任せられ、後、軍艦操練所頭取手伝出役ともなった。その後、富士見宝蔵番格軍艦頭取出役、両番上席軍艦役なども歴任したそうである(このデータはWEB百科事典より)。優秀な人物だったのだ。
長崎での同期生に勝海舟がある。勝は二歳年下ながら旗本の優等生。結果的に彼が、中島の人生の岐路を決めていくことになったように見える。
それは1859年、中島38歳の時。幕府がアメリカとの通商条約締結を決め、その為の渡米団派遣を決定する。長崎での同期の勝がその人選役になったのだ。
長崎で研鑽を積んだ同期性が渡米団員に選ばれていく中、勝は中島には日本に残ることを要請した。これは勝と中島の不仲であったからという説と、中島が優秀であったので、万が一船が難破したりした後の事を託したのだという説がある。
どちらにしても、中島の人生の分かれ目は、この時アメリカに行けなかったことにあるのではないだろうか。
1860年1月咸臨丸出航。サンフランシスコを訪れ、後々問題になる「不平等条約」を結び、5月無事帰国。成果は、何よりもその目でアメリカを見た日本人達の目を開かせた事だろう。誰もが、同じ日本の中で争っていくことの無意味を理解した筈である。勝海舟が江戸城を無血開城に導く事になるのは、自分の目で違う世界を見た成果なのかもしれない。
8年後、1868年大政奉還。
有名な西郷隆盛との会談で幕府方代表は勝海舟である。
明治政府を認めない武士達がたてこもる江戸城を無血開城するよう命令した。
中島三郎助48歳。「またしても勝か!」と思わなかっただろうか。
この時、旧幕府の軍艦開陽丸は新政府に引き渡すことを命じられたが、榎本武揚は拒否して船を出航させる。中島は息子も連れて同行した。
その後の旧幕府軍は仙台を経て函館に逃れ、中島は新撰組副長土方らと同様に、五稜郭降伏前に息子共々討ち死にする事になる。
もしも、中島がアメリカ派遣団のメンバーに選ばれていたとしたら、はたして同様の選択をしただろうか?アメリカという外国の力を知り、国内で争う愚を選ばなかったのでは・・・小雨のぱらつく浦賀で、そんな事を考えてみたくなる。
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