横須賀へ行ったので、浦賀へも寄ることにした。浦賀というと黒船来航の地。その興味で行ったのだが、黒船博物館やその他記念施設の多くは現在久里浜にある。
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京急線終点、浦賀の改札を出るとすぐに港。観光地の駅に降りた雰囲気はしない。湿った空気。霧雨が時折降ってくる。小さな湾をはさんで山がちな岬が見えている。都心から2時間も離れていないのに「遠くへきたぁ」と旅情がざわつく。
近くの「名所旧跡」を示した案内板があった。
目の前の車道は湾を目の前に左右に走っている。道に沿って左に歩くことにした。車の往来はげしい道をしばらく歩いていくと、わきへ逃れる細道へひかれて入った。静かな住宅地でほっとする。人通りも少なく、霧雨がアスファルトを濡らしていく音もきこえそうだ。
古そうな大きな井戸が道の角にある。手動式のくみ上げポンプを押してみるとすぐに水が出てきた。口にしてみるとしっかり真水である。海の気配がすぐ近くに感じられるこんな所でもちゃんと真水があるのは、海だけでなく山も近いせいかもしれない。
住宅街をしばらく歩くと、道が開けて海が見える場所に出た。
そして何気ない家の角に「吉田松陰・佐久間象山逢会所」と書かれた石柱があるのに気づいた。
「ああ、ここだった」。目指してきたわけでもないが、自然と自分が興味ある場所にたどり着いたのは不思議。だれかが導いてくれているようである。わかりやすくはなかった駅前の地図を追ってきたのでは、むしろたどり着けなかったかもしれない。行き先坂を設置するほどの場所でもないのである。
建てなおされた事は明らかにしてもこの建物が宿屋だったことはひと目でわかる造りであった。突き出したポーチにすりきれた板がはめ込まれている。よく見ると二階の窓のつくりも古い宿屋で見られるスタイルである。あの窓から宴席の声が消えてどのくらいになるのだろうか。
かつての賑わいは遠く遠く雨のかなたに去ってしまっても、この港がにぎやかだった頃の空気を少し留めている気がした。
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二十年前、国内ツアー二回目の時、初めて行った山口県・萩の松陰神社を覚えている。この神社はかつて吉田松陰門下で学んだ伊藤博文が建立したものでご神体は松陰が愛用していた硯なのだそうだ。
吉田松陰はすでに神様になっているのである。
達者なバスガイドさんが松陰が安政の大獄で刑死するまでの話をたくみに語ってくれた。その話が二十年後によみがえってくる。
松陰はその静かな物腰から想像できないほどに行動派だった。19歳で平戸、長崎を訪れ、オランダ船を見学している。江戸に滞在した後、水戸、会津、佐渡まで足をのばす。そのなかでも浦賀に行って黒船に密航しようとしたのはその行動力が最大に発揮された例だろう。
1953年7月8日に吉田松陰は浦賀に到着している。弱冠23歳。師の佐久間象山42歳。共に日本がどう黒船に対応すべきかを語った。
松陰が密航を企てたのは翌年二度目の黒船来航の時である。
密航失敗後、江戸から故郷へ続く牢生活。牢内でも人望を集めていた彼は、許された後に松下村塾をひらいた。たった二年数ヶ月の塾であったが、それこそが吉田松陰の名を現代まで伝わる理由である。
高杉晋作、伊藤博文など明治維新に大きな影響力を持つ人が育っていったのは、吉田松陰という人の存在そのものが教育だったのだろう。語られた内容よりも、「どういう行動をしてきた人が語ったか」という事の方が人には大きな影響力を持つにちがいない。