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テラチーナの古代のフォロ
2007-03-25
朝、まずは昨夜ライトアップされていた神殿基壇のあるモンテ・サンタンジェロへバスで登っていく。駐車場から神殿の残骸を見て、一見地面に見える場所から階段で下へ降りていくと、そこは基壇のある地面そのものを支えている古代のアーチがその圧倒的な迫力でそのまま残されていた。

昨夜古代のアッピア街道を使って入っていった時に山頂にライトアップされていたアーチの連続はこれだったのだ。二千年を経ているにもかかわらずその力強さはいささかも衰えていない。

上部にあった石造りの神殿を支えていたのだからそれは強固なつくりでなければ持ちこたえられない。神殿時代が去ってローマ帝国が崩壊しても、異民族が入れ替わり立ち代りその支配を変えていっても、この基壇のアーチだけはしっかりと地面を支え続けていたわけだ。

山頂の遺跡から下の城壁の旧市街まで歩いていく事にする。ローマ時代の城壁はそのまま中世の町を守る城壁として使い続けられていた。レンガと石を交互に積み上げていく古代の城壁工法がはっきりと見てとれる。中世に付け加えられた塔が美しい。

トライアヌスが崖を削って新しいアッピアを通す前の、坂をくねくねと下っていく紀元前3世紀のアッピア街道を辿って城壁の中へ入っていく。

壊れたままの家もたくさんあり、道からかつての家の中を通っていったりものする。これら廃墟は古代や中世の遺物ではない。なぁんと、第二次世界大戦の時にアメリカ軍が爆撃を加えた時のものなのだそうだ。たった半世紀前の廃墟。

破壊された壁を抜け、家並みをくぐりながら降りていくと、斜面を利用した半円形の古代オデオンが見えてきた。半分はいまだ民家の下に隠れている。そう、これら古代の遺跡も第二次大戦の爆撃によって民家が壊されたために発見された。皮肉な事に戦争の破壊が古代の遺跡の存在をを明らかにしてくれたのだ。まだそこにある爆撃に遭わなかった民家の下にも確実に古代の遺跡が存在するのは確実である。

アッピア街道がフォロに入るところに建てられていた門のアーチが見える。これもまた民家の中に取り込まれていたものが、爆撃によって姿を現したものなのだそうだ。やれやれ、古代のものがどれほど頑丈に作られていたのかを思い知らされる。

古代のフォロに入っていく。それはそのまま現代の広場になっている。こんな場所はイタリア広といえどもそうはないだろう。古代の地面というのはたいてい現代の地面の地下に埋没しているものである。それがここテラチーナではずっとそのままに使われていたのか?今の姿がそのまま二千年続いていたとは思わないほうがよいが、それが修復の成果であっても大成功しているといえるだろう。

広場の向こう側にはロマネスクの鐘楼が特徴的な教会がある。広場から二十段ほどの階段をのぼっていったところに建っている。実はここには古代の神殿があった。神殿がキリスト教の教会へと変わっても、同じ階段がそのまま使われきた。いや、本当にオリジナルな石は白く見える石だけなのだが、それでも古代人と同じ感覚でフォロから神殿(現代では教会)への階段を登ってけるというのは素直に感動的な体験である。

広場(フォロ)の中ほどにアルファベットで何か刻み込まれている。これはこの敷石を修復した当時の施政者の名前なのだそうだ。公共事業を私費で行った事を宣伝しているわけである。この文字はかつては広場の中央にあったと考えられるので、現在広場の端にある家々も、かつてのフォロを隠して建っている事になる。

遺跡を見るという事は、すなわち想像力が試される。かつてなかったものは視界から消し去って感じる必要がある。

フォロの下の町から海に面した側はテラスになっている。海岸線とアッピア街道が見える。現代では市庁舎がその場所に建っているが、この地面も実は古代のアーチが支えている。スロープの上にこんな大きなフォロを作るためにはこういう技術力がなくてはならなかったのだ。

かつての神殿への階段を登り教会へ入っていく。入ってすぐの床が美しいコズマーティ様式で飾られているのを見てうれしくなってしまった。聖堂の中央部分はほとんどがこのモザイクだ。側廊との間左手に説教段がありこれもなかなかすばらしい。

右側廊の一番奥の壁は神殿の壁をそのまま使っている。後で外側から見て柱と大理石がしっかり確認できた。広場から奥の道は中世地区へのアーチがあった。今日は残念ながらこの中世地区を探索する時間はない。残念!

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午後からカプリ島へ向かう。ナポリ発16時55分の船に乗り無事カプリの町へ到着。



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