アメリカのビデオ・アート作家ビル・ヴィオラの展覧会へ。
本日最終日だったが、すべりこみで見る事ができた。
http://www.mori.art.museum/contents/billviola/index.html展覧会といっても額縁がずらっと並んでいるというわけではない。どこかの美術館の有名な絵が見られるわけでもない。また、博物館の歴史的収蔵品の様に解説をつぶさに読んでかかれば理解できるというものでもない。ここで大事なのは、自分が何を感じるかという事。感じられるかどうか、好きか嫌いかという事でしか価値は発生しない。
これを誰かが買った時にいくらするか?といった経済的な計算も出来るのだろうが、それは自分の精神にとっての価値とはかかわりない。
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ビル・ヴィオラの多くの作品はゆっくりスローモーションで再生されていく人々の表情で成り立っている。「漂流」という作品では、20人近くのいろいろな人種年代の男女がならんでいるところに両側から強烈な放水をして、水圧になぎ倒されていく人々を撮る。短い時間で放水が止んだ後に起こることも撮っていく。現実の世界では30秒ほどの出来事を10分以上の時間をかけて再生する。こういう光景を暗闇で凝視させると、何が見えてくるのか。
それは人が誰でも通常まとっている殻が突然破壊されて、生の人間がむき出しにされる様子。「悲しみ」だったり「無関心」だったり、「怒り」だったり「やりきれなさ」だったり。この作品では放水によってそれを引き出すわけだが、早く過ぎてゆく日常でもそれは存在しているもの。時間の流れにまかせて直視していない感情なのかもしれない。
暗闇にうかぶスローモーションの世界を歩きながら、「ここで感じさせられる気持ちはどこかで味わった事がある」と思っていた。それが、どこでだったのか…、考えていくうちに思い当たった。
「そうだ、これは教会で感じさせられる気持ちとよく似ている」
祈りの場所で直面するのは、結局、人間の生の感情。自分の苦しみを直視して、神の力を借りて受け入れる事ができるようにするというのが教会の役割だとしたら、この作品の多くが置かれる一番相応しい場所は、教会ではないかと思う。同じ目的の為にあるように見えるから。