20時まで開館している金曜日。
午後5時少し前に入るのが、空いている環境で見られるチャンスである。
場内に入って、最初の展示はまずはすっとばしてしまい、最後の展示を見ることにした。光をゆっくりと変化させて、作品の表情の変化を見せようという試みがされている展示が見たかったから。
この展覧会はこの「光を変化させる」展示を見るためだけに行っても充分に価値がある。絵画は光の産物だというのは、観念としては理解していても、それを自ら確かめる方法はなかなかないのが現実であるから。
外光が取り入れられている同じ美術館に何度も足を運び、その都度自分の記憶している前回の絵の表情とくらべて見るなとという事は、そう簡単に出来ない。だからこれは大変に贅沢な展示なのだ。
今年改修後再オープンしたパリのオランジェリー美術館所蔵、モネの「睡蓮」大壁画のような展示は実に稀な事だ。
※「モバイル通信」下記参照
http://www.nta.co.jp/ryoko/tourcon/2006/060517/白い朝のような光と夕方のような黄色い光。
これが交互にゆっくりと強弱をつけて交錯する。これがみな同じ変化の仕方ではなく、作品ごとに違えてある。幽霊画においては暗い時間を長くとったりと芸が細かい。
紅白の花が一面に配された屏風では、白い光の下では白い花が咲きわたり、黄色い光に変わっていくと、今度は赤い花が開花していく。こんな表情の変化を楽しめる展示は今までになかった。
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石油ビジネスで財を成したオクラホマの富豪御曹司ジョー・プライス氏は日本語が読めない。
しかし、「日本語が読み書きできない事が、作品を見る上で良かった」と語っていた。「●●の作品でございますから」とか「××の故事を描いております」とか、そういう事はジョー・プライス氏の目には入ってこない。
純粋に絵画としての価値、そして自分の興味の為にある選択をした結果のコレクションなのだ。それが同時にこれほどの社会性を獲得しているのは審美眼が確かだという事。それにこういった少し「奇」の感じられるコレクションは、小難しい解説などを必要としないから楽しい。
自分の価値観で見る、というのは、口で言うほど容易ではない。人間は誰でも権威に目が曇るものである。
はじめて作品を見るとき、遠くからゆっくりゆっくり作品に近づいていき、三十分ぐらい眺めてから、ようやく作者の名前を訊ねる、あるいはそんな事は最後まで訊かない。そういう姿勢で作品を評価するのは、よほど浮世離れした財力と自信のなせる業である。